承継
軌跡

父の急死

職業訓練法による滝川共同職業訓練所がスター トした昭和年、 私は札幌で生生活を送っ ていた。幼い頃から家業の看板屋を手伝い、 徒弟制度時代の親方、職人、見習の仕事振りや暮らし振りを間近に見て育った私は、 ある時から、第二章 技能の継承 一
ま にもプラ バ、ー のない過酷な環境を嫌い、 別の道を歩も
心に 、 教職の道を志し いた。 その進路には高校の担任の影響があった。
旧制滝川中学を前身とする道立滝川西高等学校は、 当時、 進学校であったが、
その 年次の担任であった野崎光秀先生は軍隊帰りで硬派の強烈な印象を生徒に与えた熱血先生だった。その結果、 級の男子名中、 実に
名が教員の道に
進んだ。 私もこれにもれず、 北海道学芸大学札幌分校一類中学課程(現在の北海道教育大学札幌校) に入学し、 滝川を離れて教職への道を歩き始めていた。
昭和 年 月 、 後に卒業式を控え、 既に赴任先の市内中学校も内定し、その先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、 卒業論文のまとめの真っ最中だった私に突然一本の電話がかかった()父、危篤!私の人生が大きく変わる瞬間だった。
事情も分からないまま、 生まれて初めてのタクシー  で キロの冬道を走り、
滝" 実家こ着、 たのが午後 時頃 しかし、 父は既に息を引取っていた。 死肋札 」 腸 クニした孔力らの内出血によるものとの説明だった。 前日まで粋段と変わらず仕事をしていたという父の突然の死に呆然とする私に、さら

に厳しい決断が待っていた。
私の家族は、 両親と長男の私を筆頭に弟妹 人。 それに父の下で働いていた従業員もいる。 ミクニ舎を閉店しても、 新任教員の給料で家族を養うのは無理だし、 従業員を路頭に迷わすことになる。 といって母の女手ひとつで商売を続けるのは難しい。 親戚と従業員の幹部が集まって相談し、 教員を断念して跡を継いでほしいという意向が伝えられた。 周囲の状況を考えれば、 結論はひとつしかなく、 赴任校も、 教員の道もすべて断念し、 私はミクニ舎を継ぐこととなった。

昭利 年月 日、 大学を卒業した私はそのままミクニ舎の店主としてこの
逍に人った。 子供の頃、 父の仕事を手伝っていたとはいえ、 職人の眼から見れ

たくの人。 しかも

父の急死

職業訓練法による滝川共同職業訓練所がスタートした昭和33年、私は札幌で学生生活を送っていた。幼い頃から家業の看板屋を手伝い、徒弟制度時代の親方、職人、見習の仕事振りや暮らし振りを間近に見て育った私は、ある時から、親方家族のあまりにもプライバシーのない過酷な環境を嫌い、別の道を歩もうと心に決め、教職の道を志していた。その進路には高校の担任の影響があった。旧制滝川中学を前身とする道立滝川西高等学校は、当時、進学校であったが、その3年次の担任であった野崎光秀先生は軍隊帰りで硬派の強烈な印象を生徒に与えた熱血先生だった。その結果、級の男子28名中、実に13名が教員の道に進んだ。私もこれにもれず、北海道学芸大学札幌分校一類中学課程(現在の北海道教育大学札幌校)に入学し、滝川を離れて教職への道を歩き始めていた。昭和34年2月20日、9日後に卒業式を控え、既に赴任先の市内中学校も内定し、その先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、卒業論文のまとめの真っ最中だった私に突然一本の電話がかかった。父、危篤!私の人生が大きく変わる瞬間だった。事情も分からないまま、生まれて初めてのタクシーで90キロの冬道を走り、滝川の実家に着いたのが午後11時頃。しかし、父は既に息を引取っていた。死因は「腸栓孔」、腸に空いた孔からの内出血によるものとの説明だった。前日まで普段と変わらず仕事をしていたという父の突然の死に呆然とする私に、さらに厳しい決断が待っていた。.私の家族は、両親と長男の私を筆頭に弟妹4人。それに父の下で働いていた従業員もいる。ミクニ舎を閉店しても、新任教員の給料で家族を養うのは無理だし、従業員を路頭に迷わすことになる。といって母の女手ひとつで商売を続けるのは難しい。親戚と従業員の幹部が集まって相談し、教員を断念して跡を継いでほしいという意向が伝えられた。周囲の状況を考えれば、結論はひとつしかなく、赴任校も、教員の道もすべて断念し、私はミクニ舎を継ぐこととなった。

商業の町滝川は、一方で手仕事を生業とする職人の町でもあった

池田さんの桶屋だけでなく、通学路には時計修理屋、洋服仕立て屋、タタミ屋、蹄鉄屋、鍛冶屋、精米所、農機具屋、鋸の目立て屋、表具屋などが軒を連ねていた。そのほとんどが店先に作業場があり、我々小学生は六年間、登下校の道すがら、その仕事振りをいつも見続けていた。

地域職業訓練センターを滝川市に誘致

1957年5月 中空知地域職業訓練センター設置期成会設立準備委員会を発足させた。
5月29日には期成会設立総会を開催、少覚納滝川商工会議所会頭を会長に、当時滝川地方職業訓練協会会長だった私と田端真佳滝川建設協会会長が、それぞれ副会長に就任した。

中空知地域職業訓練センターの開設

昭和59年4月9日、中空知職業訓練センターの起工式が行われ同年11月落成式が行われた。

株式会社 ミクニ舎 会長

株式会社ミクニ舎

昭和 6年 4月渡邉国平が看板塗装業ミクニ舎を創業する
昭和34年 2月店主渡邉国平が逝き、渡邉恭久が店主となる
昭和35年 1月有限会社ミクニ舎を設立、渡邉恭久が社長となる

国際ロータリ ー第2510地区2009-2010年度 ガバナー

【基本方針】環境・人・子供に目を向けよう
環境は地球人の普遍的テーマ
人は等しく生きる権利がある
子どもは未来を持っていてそれを拓く支援をしなければならない
1. 小児ガンの子どもに夢や希望を与える「そらぷちキッズキャンプ」を支援しよう
2.水の衛生確保と飢餓追放のため活動する「WCS」を支援するクラブを応援しよう
3.会貝増強のため純増を年度初めの会員数の「1名以上の会貝増」を実行しよう
4.会員は常なる活動の意識の中で「職業倫理を醸成」し職業奉仕に心がけよう

ロータリーガバナー年度を終えて

国際ロータリー 第2510地区 2009-2010年度 ガバナー 渡  邉  恭  久 (滝川RC)
ガバナー就任への準備で2年半、そして本番で1年、あっという間に任期が過ぎてしまいました。
 短かったようで、また長くにも感じましたが、この歩みは充実した3年半でありました。
 3年半前の2006年11月、滝川クラブ総意でガバナー立起への後押しを貰い、非力を承知で受けて以来、滝川クラブは勿論、第2グループ、地区内のロータリアン、パストガバナー、ガバナー補佐はじめ地区委員長、ガバナースタッフの温かく、力強いご支援のもとに役割を果たし、任期を満了することが出来ました。改めてこの誌上を借りて深く感謝を申し上げます。今、ここでこの1年を振り返ると走馬燈のごとくいろいろなシーンが目に浮かんでまいります。
 各研修セミナーは、ガバナー就任前のプログラムで、ガバナー補佐セミナーに続いて、昨年2月、砂川クラブの見事な主管だったPETS、地区チーム研修、財団、米山セミナー、4月の地区協議会、6月の増強セミナーは、当然ながら出席率は各々の責任と自覚によって高く維持され、「入りて学び、出でて奉仕」を実践したものでした。これらのセミナーはクラブリーダー、地区内会員に対し伝える、刺激しあう、考える、そして自覚をするもっとも大切な機会を効果的に提供出来たと思っております。
 地区大会、IM、周年式典行事などで、地区大会は地方都市での開催ということで、参加者1,500名の収容力、宿泊、滝川へのアクセス、主管する滝川クラブの経験不足などに不安がありましたが、会員の総力、工夫、知恵、熱い情熱でそのハンディキャップを克服したと自賛しております。
 IMは、北海道のように遠く広い地区では、地域が抱える問題、情報の交換、交流などのため効果的なミ ーティングの機能を持っていると確信をしました。各グループは地域の伝統、慣習を合意と共感を基盤に特色あるプログラムで開催をしていました。クラブの周年行事は、5年刻み、あるいは10年、25年の単位で奉仕の歴史を確認検証し、先達に対する労いと感謝、地域社会へ活動の露出は更なる発展への足がかりになり、クラブの周年行事は意義深いものであると感じたことでした。
 公式訪問は、地区内73クラブを一部を除いて、一つ一つを丁寧に回ったつもりでおります。各クラブは、まちの人々から信頼と期待を受け、地域にしっかり根を張って活動をしておりましたし、そのクラブの慣習が個性となって、独特な味わいを醸し出しているクラブもありました。例会の雰囲気や社会奉仕の地域奉仕は理念や型ではなく、善意と思いやりが和やかさとなり、奉仕の形となって地域の信頼を受けているのだと改めて確認をしたものでありました。
 そらぷちキッズキャンプの支援、当初地区が事業を持つのはおかしい、あるいは特定地域の振興のためにガバナーが地区内クラブに呼びかけるのは、我田引水との意見もありました。
 しかし、そらぷちキッズキャンプ支援には、地区がそのために予算を持つことなく、また、会員の金銭や汗を強く求めるのでもなく、アジアで初めて、日本でただ一つのキャンプ。一人では生きていけない、明日への夢や生きる希望の持てない小児がんや難病の子供たちに、手を差し伸べ彼らが生きよう、また来年もこの楽しかったキャンプに来よう、キャンプで出来た友達にまた会うために、生きる力を自分で呼び起こすこのキャンプが、北海道の地区内に造られたから、それを支援しようでありました。以来、ガバナー補佐の並々ならぬお力で地区内クラブは勿論、地区外のガバナーやロータリアンの支援をも受け、今では大きく当地区が提唱した人道的な事業として広がりつつあります。ご支援をいただきました皆様に心からお礼を申し上げます。
 地区委員会は本年度31の委員会を持ち、諮問性あるいは機関的機能を持つ委員会、事業を推進し、クラブに支援をする委員会など役割がそれぞれ異なりましたが、複数年にわたり準備し、継続的に進めてくれた事業、RIと連携し外国を対象として事業に取り組むなど、専門性と経験を生かし、汗と知恵で成果や実績を上げてくれたことに敬意と労いを申し上げます。振り返りますと、走馬燈のシーンは限りなく続く、充実した3年半でありました。
あらためて、ご指導をいただき、あるいはお引き立てを下され、ご支援をいただきました数多い皆様の温かい善意と思いやりに心から感謝を申し上げ、年度を終えての挨拶といたします。
上記 ガバナー月信 最終号より

JR滝川駅ホームに「Rotary待合室」を設置

【JR滝川駅ホームに「Rotary待合室」を設置】JR北海道は大赤字ですので、他のJR各社と違い乗降者の少ない駅ホームにはなかなか風除室を設置してくれません。北海道滝川市はとても寒い地域で厳冬期はマイナス20℃から30度になることもあります。雪、風、雨から住民を守る為に立ち上がったのが当クラブの渡邉パストガバナーと当時の理事役員です。滝川ロータリークラブが資金援助をして設置したことで、奉仕の理想や四つのテストなどの看板表示また広報板として利用させて貰っています。

                     寄稿者:山口 清悦(滝川ロータリークラブ)


渡邉家お墓

滝川市 空知太墓地 G-176 渡邉家墓所マップ  43°32'24.2"N 141°55'34.6"E