想いで.com
1935年北海道滝川市に生まれる
北海道学芸大学札幌分校(現北海道教育大学札幌校)卒
株式会社ミクニ舎 代表取締役社長
社団法人中空知地域職業訓練センター協会会長
昭和35年、 認定職業訓練所塗装科長を振り出しに共同職業訓練所所長、 認定職業訓練校長(34蔵) 、 謂練協会会長など民間訓練に45年間務める。
その間、北海道職業訓練審議会委員から呼称が変わった北海道職業能力開発審議会委員の職業訓練公職を22年間務める。
滝川市教育委員・教育委員長、 青年会議所理事長、 ロ ータリ ー クラプ会長、滝川市経営者協会会長、 テニス連盟会長、 音楽協会会長、 裁判所調停委員などを歴任、 (社)日本塗装工業会副会長を務め、 現在は北海道職業能力開発協会副会長、 滝川商工会議所副会頭

平成12年春黄綬褒章受章
国際ロータリー 第2510地区 2009-2010年度 ガバナー渡 邉 恭 久

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大切な方の思いで

父の急死

職業訓練法による滝川共同職業訓練所がスター トした昭和年、 私は札幌で生生活を送っ ていた。幼い頃から家業の看板屋を手伝い、 徒弟制度時代の親方、職人、見習の仕事振りや暮らし振りを間近に見て育った私は、 ある時から、第二章 技能の継承 一
ま にもプラ バ、ー のない過酷な環境を嫌い、 別の道を歩も
心に 、 教職の道を志し いた。 その進路には高校の担任の影響があった。
旧制滝川中学を前身とする道立滝川西高等学校は、 当時、 進学校であったが、
その 年次の担任であった野崎光秀先生は軍隊帰りで硬派の強烈な印象を生徒に与えた熱血先生だった。その結果、 級の男子名中、 実に
名が教員の道に
進んだ。 私もこれにもれず、 北海道学芸大学札幌分校一類中学課程(現在の北海道教育大学札幌校) に入学し、 滝川を離れて教職への道を歩き始めていた。
昭和 年 月 、 後に卒業式を控え、 既に赴任先の市内中学校も内定し、その先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、 卒業論文のまとめの真っ最中だった私に突然一本の電話がかかった()父、危篤!私の人生が大きく変わる瞬間だった。
事情も分からないまま、 生まれて初めてのタクシー  で キロの冬道を走り、
滝" 実家こ着、 たのが午後 時頃 しかし、 父は既に息を引取っていた。 死肋札 」 腸 クニした孔力らの内出血によるものとの説明だった。 前日まで粋段と変わらず仕事をしていたという父の突然の死に呆然とする私に、さら

に厳しい決断が待っていた。
私の家族は、 両親と長男の私を筆頭に弟妹 人。 それに父の下で働いていた従業員もいる。 ミクニ舎を閉店しても、 新任教員の給料で家族を養うのは無理だし、 従業員を路頭に迷わすことになる。 といって母の女手ひとつで商売を続けるのは難しい。 親戚と従業員の幹部が集まって相談し、 教員を断念して跡を継いでほしいという意向が伝えられた。 周囲の状況を考えれば、 結論はひとつしかなく、 赴任校も、 教員の道もすべて断念し、 私はミクニ舎を継ぐこととなった。

昭利 年月 日、 大学を卒業した私はそのままミクニ舎の店主としてこの
逍に人った。 子供の頃、 父の仕事を手伝っていたとはいえ、 職人の眼から見れ

たくの人。 しかも

父の急死

職業訓練法による滝川共同職業訓練所がスタートした昭和33年、私は札幌で学生生活を送っていた。幼い頃から家業の看板屋を手伝い、徒弟制度時代の親方、職人、見習の仕事振りや暮らし振りを間近に見て育った私は、ある時から、親方家族のあまりにもプライバシーのない過酷な環境を嫌い、別の道を歩もうと心に決め、教職の道を志していた。その進路には高校の担任の影響があった。旧制滝川中学を前身とする道立滝川西高等学校は、当時、進学校であったが、その3年次の担任であった野崎光秀先生は軍隊帰りで硬派の強烈な印象を生徒に与えた熱血先生だった。その結果、級の男子28名中、実に13名が教員の道に進んだ。私もこれにもれず、北海道学芸大学札幌分校一類中学課程(現在の北海道教育大学札幌校)に入学し、滝川を離れて教職への道を歩き始めていた。昭和34年2月20日、9日後に卒業式を控え、既に赴任先の市内中学校も内定し、その先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、卒業論文のまとめの真っ最中だった私に突然一本の電話がかかった。父、危篤!私の人生が大きく変わる瞬間だった。事情も分からないまま、生まれて初めてのタクシーで90キロの冬道を走り、滝川の実家に着いたのが午後11時頃。しかし、父は既に息を引取っていた。死因は「腸栓孔」、腸に空いた孔からの内出血によるものとの説明だった。前日まで普段と変わらず仕事をしていたという父の突然の死に呆然とする私に、さらに厳しい決断が待っていた。.私の家族は、両親と長男の私を筆頭に弟妹4人。それに父の下で働いていた従業員もいる。ミクニ舎を閉店しても、新任教員の給料で家族を養うのは無理だし、従業員を路頭に迷わすことになる。といって母の女手ひとつで商売を続けるのは難しい。親戚と従業員の幹部が集まって相談し、教員を断念して跡を継いでほしいという意向が伝えられた。周囲の状況を考えれば、結論はひとつしかなく、赴任校も、教員の道もすべて断念し、私はミクニ舎を継ぐこととなった。

商業の町滝川は、一方で手仕事を生業とする職人の町でもあった

池田さんの桶屋だけでなく、通学路には時計修理屋、洋服仕立て屋、タタミ屋、蹄鉄屋、鍛冶屋、精米所、農機具屋、鋸の目立て屋、表具屋などが軒を連ねていた。そのほとんどが店先に作業場があり、我々小学生は六年間、登下校の道すがら、その仕事振りをいつも見続けていた。
弔意 (献花)

わが町匠の系譜

山崎修さんが2021年8月10日に投稿
民間が行う職業訓練ー徒弟制度から職業能力開発へ

愛情と熱意と感謝で綴られた
中空知、職業訓練の軌跡。

親方の家族の目から見た徒弟制度における技能伝承の姿、
戦後の空白を乗り越え、手探りで始まった民間技能訓練黎明期、
そして地域職業訓練センターの誘致に始まる
本格的な職業能力開発の歩み。
著者が体験し、携わった中空知の職業訓練の足跡が
中空知地域職業訓練センター創立20周年を記念して
ここに集大成された。

『当時、墨の絵の具は油煙を擂って作っていた。股の間に擂り鉢を挟み、一滴、また一滴
と水を加えながら、比重の軽い油煙が吹き飛ばないよう、水となじませながら擂り粉木で擂るという今期のいる作業である。この作業は、油煙が飛んで他の作業に影響しないよう作業場の片隅が使われた。注意深く作業していても時には油煙の粉が舞い上がり、あんちゃんの頬や鼻につき、それを手でこするため顔が真っ黒になることがあった。
薄暗い作業場の片隅で、真っ黒な顔で黙々と油煙を擂っていたあんちゃん。少しでも早く一人前になりたいとひたむきに頑張っていたその姿に技能習得の原点を感じる』

                   第一章 職人のいる風景 「家業は看板屋」より