夫ピーターワーナーが突然この世を去ってから2回目の夏を迎えました。
去年は何もできる状態ではなかったため、今年は何らかの形で追悼を行い皆様にもお会いしたいと思っていましたが、昨今の状況から集まる事が難しくなって思案していた所このサイトを知りました。まだ手探りで始めたばかりですが、今後少しずつ色々な思い出や写真等をアップしていきたいと思います。
皆様の中にあるピーターとの思い出やピーターへのメッセージをシェアしていただけたらとても嬉しく思います。 2020.08.08 中森 浩子
Please feel free to write your message to Peter or a memory of Peter.We'd be very happy to share with you.
(Click the button right next to the pen icon to post message. You can write whatever you feel. Thank you.)
カバンを整理していたら,ピーター先生 お手製の名刺を見つけました。
もしかしたらと思い,「Peter Warner Teaher」で検索したら,この思い出サイトに辿り着きました。
2018年の夏,仕事の関係で教室でのお別れ会に参加できず,後日,閉鎖された教室のマンションまで行ったことを思い出します。時折,英会話に通ってみるかと考えてはみるものの,ピーター先生でないなら... と思い,手を止めてしまいます。ピーター先生は本当に最高でした。心から感謝しています。
家族の皆様,思い出サイトを作っていただき,ありがとうございました。
6年間のご様子を知れました。今年も暑い日々が続きますが,ご自愛ください。
時折,訪問させていただきます。
もしかしたらと思い,「Peter Warner Teaher」で検索したら,この思い出サイトに辿り着きました。
2018年の夏,仕事の関係で教室でのお別れ会に参加できず,後日,閉鎖された教室のマンションまで行ったことを思い出します。時折,英会話に通ってみるかと考えてはみるものの,ピーター先生でないなら... と思い,手を止めてしまいます。ピーター先生は本当に最高でした。心から感謝しています。
家族の皆様,思い出サイトを作っていただき,ありがとうございました。
6年間のご様子を知れました。今年も暑い日々が続きますが,ご自愛ください。
時折,訪問させていただきます。
私が初めてピーターさんにお会いしたのは、親しい友人である浩子さんが彼を婚約者として紹介してくださった時です。そのすらっとした長身と人懐っこいキラキラした瞳に魅せられたのを覚えています。その後私は海外に住むようになり、ご結婚なさったピーターさんと浩子さんにお会いする機会はそんなにありませんでしたが、それでも胸に焼き付いた忘れがたい思い出があります。
私の二人の娘がまだ小さかったある夏、私が久しぶりに帰国して茨城の実家に帰省していた時のことです。名古屋にお住いの浩子さんが会いに来ないかと誘ってくださったのです。その当時経済的にあまり余裕がなかった私は、とても茨城から名古屋までの交通費が出せなかったので、この次にしましょうと返答したところ、折り返し浩子さんからご連絡があり、ピーターさんが交通費を出してくださるとのこと、私は耳を疑いました。「めったに会えないあなたの親友なんだから」とご自分から申し出てくださったと聞かされ、思わず目頭が熱くなるのを覚えました。感謝の思いを胸に私が娘たちを連れて名古屋に飛んで行ったのは言うまでもありません。
私の名古屋滞在中も彼はずっとなごやかな笑顔でした。最後の夜、浩子さんは久しぶりに会った私と二人きりでの外食を計画してくれましたが、その当時まだ小さかったジョン君とうちの二人の娘のベビーシッターを買って出てくれたのはやはりピーターさんでした。私は出かける前、申し訳なくてどんなふうにお礼を言ったかすら覚えていません。私が覚えているのはただ「いってらっしゃい」という彼のまぶしい笑顔でした。その夜私たち二人が外食を終えて帰ってくると、玄関先でいちばん初めに耳にしたのはピーターさんと3人の子供たちの屈託のない笑い声です。4人はゲームをしながら私たちの帰りを待っていてくれたのです。
私のピーターさんとの最高の思い出はこの名古屋訪問でした。今でもまるで昨日のことのように思い出します。今ではもう成人した娘たちも、ピーターさんと過ごしたこのひと時をいまだに覚えていて、ことあるたびになつかしがります。
わずかな出会いの中に、何とたくさんの胸高鳴る思い出を残してくれたことでしょう。私はこのピーターさんの思い出を一生大切に心に閉まっておきます。そして、いつかどこかで彼に再会できたら、もう一度心からの「ありがとう」が言いたいです。
地上での人生は短かったけれど、彼はダイアモンドのように輝く思い出を多くの人の胸に残してくれました。
ピーターさん、本当にありがとう!
私の二人の娘がまだ小さかったある夏、私が久しぶりに帰国して茨城の実家に帰省していた時のことです。名古屋にお住いの浩子さんが会いに来ないかと誘ってくださったのです。その当時経済的にあまり余裕がなかった私は、とても茨城から名古屋までの交通費が出せなかったので、この次にしましょうと返答したところ、折り返し浩子さんからご連絡があり、ピーターさんが交通費を出してくださるとのこと、私は耳を疑いました。「めったに会えないあなたの親友なんだから」とご自分から申し出てくださったと聞かされ、思わず目頭が熱くなるのを覚えました。感謝の思いを胸に私が娘たちを連れて名古屋に飛んで行ったのは言うまでもありません。
私の名古屋滞在中も彼はずっとなごやかな笑顔でした。最後の夜、浩子さんは久しぶりに会った私と二人きりでの外食を計画してくれましたが、その当時まだ小さかったジョン君とうちの二人の娘のベビーシッターを買って出てくれたのはやはりピーターさんでした。私は出かける前、申し訳なくてどんなふうにお礼を言ったかすら覚えていません。私が覚えているのはただ「いってらっしゃい」という彼のまぶしい笑顔でした。その夜私たち二人が外食を終えて帰ってくると、玄関先でいちばん初めに耳にしたのはピーターさんと3人の子供たちの屈託のない笑い声です。4人はゲームをしながら私たちの帰りを待っていてくれたのです。
私のピーターさんとの最高の思い出はこの名古屋訪問でした。今でもまるで昨日のことのように思い出します。今ではもう成人した娘たちも、ピーターさんと過ごしたこのひと時をいまだに覚えていて、ことあるたびになつかしがります。
わずかな出会いの中に、何とたくさんの胸高鳴る思い出を残してくれたことでしょう。私はこのピーターさんの思い出を一生大切に心に閉まっておきます。そして、いつかどこかで彼に再会できたら、もう一度心からの「ありがとう」が言いたいです。
地上での人生は短かったけれど、彼はダイアモンドのように輝く思い出を多くの人の胸に残してくれました。
ピーターさん、本当にありがとう!
Peter,
I quite enjoyed getting to know you over the years here in Japan - hard working, professional, friendly, generous, and at times a little shy - at teaching workshops and over billiards. It was good spending time with you. Thank you.
You had great character and strong views. With them, you helped lead your communities.
It was a shock to hear that you had passed, but not surprising to hear that it was while helping your church. It would have been nice if you could have stayed with us a little longer, but things did not turn out that way and you have moved on. I am sure you are close to God.
Be well my friend,
Josh
I quite enjoyed getting to know you over the years here in Japan - hard working, professional, friendly, generous, and at times a little shy - at teaching workshops and over billiards. It was good spending time with you. Thank you.
You had great character and strong views. With them, you helped lead your communities.
It was a shock to hear that you had passed, but not surprising to hear that it was while helping your church. It would have been nice if you could have stayed with us a little longer, but things did not turn out that way and you have moved on. I am sure you are close to God.
Be well my friend,
Josh
皆さまへ
父ピーターへの追悼メッセージ、誠にありがとうございます。
もしよろしければ、このサイトの「思い出」というページもご覧ください。
ピーターとの思い出を共有する場所ですので、写真や動画・思い出コメントなどをシェアして頂けますと彼もきっと喜ぶと思います。よろしくお願い申し上げます。
父ピーターへの追悼メッセージ、誠にありがとうございます。
もしよろしければ、このサイトの「思い出」というページもご覧ください。
ピーターとの思い出を共有する場所ですので、写真や動画・思い出コメントなどをシェアして頂けますと彼もきっと喜ぶと思います。よろしくお願い申し上げます。
I first met Peter in the summer of 1977. He and his family moved to Nagoya in 1991. My family and I moved nearby to my wife’s hometown about six months later. Our families got together two or three times a year. Unfortunately because of schedules etc. we met less often in recent years.
Peter was my friend and I miss him very much. He always had a huge, welcoming smile on his face, a grin and a laugh that were impossible to forget. He was passionate about his work, especially phonics. I wish we had another chance to shoot some eight-ball.
Peter was my friend and I miss him very much. He always had a huge, welcoming smile on his face, a grin and a laugh that were impossible to forget. He was passionate about his work, especially phonics. I wish we had another chance to shoot some eight-ball.
Peter, how have you been doing up there? Are you finally in peace or still busy working hard on something?
I still give your phonics-based approach in my classroom and sometimes wonder where I’m going with it. We have a lot to catch up on. I miss you.
I still give your phonics-based approach in my classroom and sometimes wonder where I’m going with it. We have a lot to catch up on. I miss you.
Hi, ピーターおじさん。元気?…って訊くのはおかしいですよね。でも、そう訊きたくなってしまうんです。だって私が挨拶するとき、ピーターおじさんはいつも笑っていたから。私が今時の小学生よりも拙い英語でなんとか話をしようとすると、おじさんは「Hee!hee!hee!」と甲高く笑って、でもそれはとても朗らかで暖かい笑いなんです。まるで部屋の電球が増えたかのように明るくしてくれました。私のなかのピーターさんは、いまでも明るいです。8月の太陽のように…。これからもその笑顔で照らし続けてください。忘れないよ。
I worked with Peter in Los Angeles for several years. He was a person of intense honesty and integrity. After Peter and Hiroko moved to Nagoya, and since my wife is from Nagoya, we visited them every time we visited her family. This gave us a wonderful friendship with Peter and Hiroko and John as we visited them several times over 20 some years. It was a pleasure to see Peter start his school and watch it grow. His dedication to his students and teaching program was nothing but exceptional, professional, and a labor of love. He believed strongly in his approach to Japanese children learning English that he pursued informing the Japanese department of education of his system, believing it of value to the nation of Japan. He wanted so much for the people of Japan to benefit from a better system of teaching. The success of his teaching English to the youth of Japan was unequaled.
Peter loved his wife and son. He loved billiards and approached it with a deeply analytical and expert viewpoint. It was another example of how meticulous he was in everything he did. He was an avid reader, and loved history. He had a big heart, and lived his life in service of others. He is remembered as a very loving, caring, and serving person. A great man, motivated by truth and love. From my wife, Yumiko, and I, Bill Roche, we offer our sincerest warmest and affectionate loving memories of Peter.
Peter loved his wife and son. He loved billiards and approached it with a deeply analytical and expert viewpoint. It was another example of how meticulous he was in everything he did. He was an avid reader, and loved history. He had a big heart, and lived his life in service of others. He is remembered as a very loving, caring, and serving person. A great man, motivated by truth and love. From my wife, Yumiko, and I, Bill Roche, we offer our sincerest warmest and affectionate loving memories of Peter.
Peterのお墓について
去年ある方から「ピーター先生のお墓参りに行きたいので場所を教えてください」という連絡をいただきました。
ピーターの遺骨は2つの骨壺に入れて持ち帰りました。一つはビーターの姪のナターシャがこちらに取りに来てくれ、アメリカに渡り故郷マサチューセッツ州のノースフィールドにある墓地に埋葬されました。広々とした芝生が広がる大地と明るくどこまでも広がる空の下で父Rechardのお墓の隣にピーターの墓石があります。(冬は雪に埋もれてしまうそうですが)写真がアップできるようになったらご覧いただきたいのでもう少しお待ちくださいね。
もう一つの遺骨はまだ自宅にあり、ピーターの遺影を飾った棚の中に安置されています。
色々な経緯があり、まだどのようなかたちにするのか決めかねているのでしばらくはこのままにしておくつもりです。 8/11/2020 中森浩子
去年ある方から「ピーター先生のお墓参りに行きたいので場所を教えてください」という連絡をいただきました。
ピーターの遺骨は2つの骨壺に入れて持ち帰りました。一つはビーターの姪のナターシャがこちらに取りに来てくれ、アメリカに渡り故郷マサチューセッツ州のノースフィールドにある墓地に埋葬されました。広々とした芝生が広がる大地と明るくどこまでも広がる空の下で父Rechardのお墓の隣にピーターの墓石があります。(冬は雪に埋もれてしまうそうですが)写真がアップできるようになったらご覧いただきたいのでもう少しお待ちくださいね。
もう一つの遺骨はまだ自宅にあり、ピーターの遺影を飾った棚の中に安置されています。
色々な経緯があり、まだどのようなかたちにするのか決めかねているのでしばらくはこのままにしておくつもりです。 8/11/2020 中森浩子
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カバンを整理していたら,ピーター先生 お手製の名刺を見つけました。
もしかしたらと思い,「Peter Warner Teaher」で検索したら,この思い出サイトに辿り着きました。
2018年の夏,仕事の関係で教室でのお別れ会に参加できず,後日,閉鎖された教室のマンションまで行ったことを思い出します。時折,英会話に通ってみるかと考えてはみるものの,ピーター先生でないなら... と思い,手を止めてしまいます。ピーター先生は本当に最高でした。心から感謝しています。
家族の皆様,思い出サイトを作っていただき,ありがとうございました。
6年間のご様子を知れました。今年も暑い日々が続きますが,ご自愛ください。
時折,訪問させていただきます。
もしかしたらと思い,「Peter Warner Teaher」で検索したら,この思い出サイトに辿り着きました。
2018年の夏,仕事の関係で教室でのお別れ会に参加できず,後日,閉鎖された教室のマンションまで行ったことを思い出します。時折,英会話に通ってみるかと考えてはみるものの,ピーター先生でないなら... と思い,手を止めてしまいます。ピーター先生は本当に最高でした。心から感謝しています。
家族の皆様,思い出サイトを作っていただき,ありがとうございました。
6年間のご様子を知れました。今年も暑い日々が続きますが,ご自愛ください。
時折,訪問させていただきます。
私が初めてピーターさんにお会いしたのは、親しい友人である浩子さんが彼を婚約者として紹介してくださった時です。そのすらっとした長身と人懐っこいキラキラした瞳に魅せられたのを覚えています。その後私は海外に住むようになり、ご結婚なさったピーターさんと浩子さんにお会いする機会はそんなにありませんでしたが、それでも胸に焼き付いた忘れがたい思い出があります。
私の二人の娘がまだ小さかったある夏、私が久しぶりに帰国して茨城の実家に帰省していた時のことです。名古屋にお住いの浩子さんが会いに来ないかと誘ってくださったのです。その当時経済的にあまり余裕がなかった私は、とても茨城から名古屋までの交通費が出せなかったので、この次にしましょうと返答したところ、折り返し浩子さんからご連絡があり、ピーターさんが交通費を出してくださるとのこと、私は耳を疑いました。「めったに会えないあなたの親友なんだから」とご自分から申し出てくださったと聞かされ、思わず目頭が熱くなるのを覚えました。感謝の思いを胸に私が娘たちを連れて名古屋に飛んで行ったのは言うまでもありません。
私の名古屋滞在中も彼はずっとなごやかな笑顔でした。最後の夜、浩子さんは久しぶりに会った私と二人きりでの外食を計画してくれましたが、その当時まだ小さかったジョン君とうちの二人の娘のベビーシッターを買って出てくれたのはやはりピーターさんでした。私は出かける前、申し訳なくてどんなふうにお礼を言ったかすら覚えていません。私が覚えているのはただ「いってらっしゃい」という彼のまぶしい笑顔でした。その夜私たち二人が外食を終えて帰ってくると、玄関先でいちばん初めに耳にしたのはピーターさんと3人の子供たちの屈託のない笑い声です。4人はゲームをしながら私たちの帰りを待っていてくれたのです。
私のピーターさんとの最高の思い出はこの名古屋訪問でした。今でもまるで昨日のことのように思い出します。今ではもう成人した娘たちも、ピーターさんと過ごしたこのひと時をいまだに覚えていて、ことあるたびになつかしがります。
わずかな出会いの中に、何とたくさんの胸高鳴る思い出を残してくれたことでしょう。私はこのピーターさんの思い出を一生大切に心に閉まっておきます。そして、いつかどこかで彼に再会できたら、もう一度心からの「ありがとう」が言いたいです。
地上での人生は短かったけれど、彼はダイアモンドのように輝く思い出を多くの人の胸に残してくれました。
ピーターさん、本当にありがとう!
私の二人の娘がまだ小さかったある夏、私が久しぶりに帰国して茨城の実家に帰省していた時のことです。名古屋にお住いの浩子さんが会いに来ないかと誘ってくださったのです。その当時経済的にあまり余裕がなかった私は、とても茨城から名古屋までの交通費が出せなかったので、この次にしましょうと返答したところ、折り返し浩子さんからご連絡があり、ピーターさんが交通費を出してくださるとのこと、私は耳を疑いました。「めったに会えないあなたの親友なんだから」とご自分から申し出てくださったと聞かされ、思わず目頭が熱くなるのを覚えました。感謝の思いを胸に私が娘たちを連れて名古屋に飛んで行ったのは言うまでもありません。
私の名古屋滞在中も彼はずっとなごやかな笑顔でした。最後の夜、浩子さんは久しぶりに会った私と二人きりでの外食を計画してくれましたが、その当時まだ小さかったジョン君とうちの二人の娘のベビーシッターを買って出てくれたのはやはりピーターさんでした。私は出かける前、申し訳なくてどんなふうにお礼を言ったかすら覚えていません。私が覚えているのはただ「いってらっしゃい」という彼のまぶしい笑顔でした。その夜私たち二人が外食を終えて帰ってくると、玄関先でいちばん初めに耳にしたのはピーターさんと3人の子供たちの屈託のない笑い声です。4人はゲームをしながら私たちの帰りを待っていてくれたのです。
私のピーターさんとの最高の思い出はこの名古屋訪問でした。今でもまるで昨日のことのように思い出します。今ではもう成人した娘たちも、ピーターさんと過ごしたこのひと時をいまだに覚えていて、ことあるたびになつかしがります。
わずかな出会いの中に、何とたくさんの胸高鳴る思い出を残してくれたことでしょう。私はこのピーターさんの思い出を一生大切に心に閉まっておきます。そして、いつかどこかで彼に再会できたら、もう一度心からの「ありがとう」が言いたいです。
地上での人生は短かったけれど、彼はダイアモンドのように輝く思い出を多くの人の胸に残してくれました。
ピーターさん、本当にありがとう!
Peter,
I quite enjoyed getting to know you over the years here in Japan - hard working, professional, friendly, generous, and at times a little shy - at teaching workshops and over billiards. It was good spending time with you. Thank you.
You had great character and strong views. With them, you helped lead your communities.
It was a shock to hear that you had passed, but not surprising to hear that it was while helping your church. It would have been nice if you could have stayed with us a little longer, but things did not turn out that way and you have moved on. I am sure you are close to God.
Be well my friend,
Josh
I quite enjoyed getting to know you over the years here in Japan - hard working, professional, friendly, generous, and at times a little shy - at teaching workshops and over billiards. It was good spending time with you. Thank you.
You had great character and strong views. With them, you helped lead your communities.
It was a shock to hear that you had passed, but not surprising to hear that it was while helping your church. It would have been nice if you could have stayed with us a little longer, but things did not turn out that way and you have moved on. I am sure you are close to God.
Be well my friend,
Josh
アルバム
誕生日に好物の手作りアップルパイで
セミナーにてスピーチするピーター5
英語教材の展示会にて
手製のワークシートと共に
教室にて保護者向けセミナー
セミナーにてスピーチするピーター4
セミナーにてスピーチするピーター3
セミナーにてスピーチするピーター2
セミナーにてスピーチするピーター1
報告
知っていると思うけど
あなたの最愛の一人息子ジョンが結婚した。
あなたに似て繊細で優しい彼は結婚を考えた時、本当に自分が家族を守っていけるのかかなり悩んで決断には勇気が必要だったようだ。私にも相談してきたが、本当は父親に相談して後押しして欲しかったに違いない。せめて一人息子の結婚式まで見届けてくれていたら良かったのにね。
私も準備が大変で緊張した。式場に持って行く為に小さなあなたの写真も用意した。こんな大事な日に一人で行くなんて、、。おめでたい気持ちと小さな寂しさを鞄に詰めて出かけた。
最後にスピーチもこなした。家でスピーチの原稿を一生懸命考えてさあこれで良し、と思ったときふと最後に「I'm really proud of you. I love you!」という言葉が頭の中に響いた。
それはあなたの葬儀の時、棺の中のあなたに向かって絶叫した息子に対するあなたの答えだったのですね。
あなたに似て繊細で優しい彼は結婚を考えた時、本当に自分が家族を守っていけるのかかなり悩んで決断には勇気が必要だったようだ。私にも相談してきたが、本当は父親に相談して後押しして欲しかったに違いない。せめて一人息子の結婚式まで見届けてくれていたら良かったのにね。
私も準備が大変で緊張した。式場に持って行く為に小さなあなたの写真も用意した。こんな大事な日に一人で行くなんて、、。おめでたい気持ちと小さな寂しさを鞄に詰めて出かけた。
最後にスピーチもこなした。家でスピーチの原稿を一生懸命考えてさあこれで良し、と思ったときふと最後に「I'm really proud of you. I love you!」という言葉が頭の中に響いた。
それはあなたの葬儀の時、棺の中のあなたに向かって絶叫した息子に対するあなたの答えだったのですね。
今日のお供え
ピーターが亡くなってから私の食生活は変わった。朝は決まってパンだったがもう大概ご飯だ。でも今日は命日なのでパンケーキを焼いた。
家族3人揃っていたとき日曜日の朝はパンケーキという習慣だった。メープルシロップは必ずアメリカの本物のシロップを買っていた。時にバナナやカボチャやブルーベリー等を入れて楽しんだ。一度「パンプキンパンケーキとブルーベリーパンケーキのどっちがいい?」と聞いた時「うーん、、、」と身悶えして悩んだ姿を思い出しておかしい。
今日のはヨーグルト米粉パンケーキに友人が庭のブルーベリーで作ったジャムをくれたのでそれをのせた。コーヒーは前夜仕込んだ水出しコーヒーだ。少ししてからそれを下げて食べた所自分でもびっくりするほど美味しい。私まだ少し進化してる?
あなたの遺影に向かって「美味しいね」と言って食べた。魂になったら食べる必要はないからお供えって本当に喜ぶのかしら?と時々思う。こちらの気持ちやエッセンスのようなものを受け取ると言う人もいる。でもこんなに美味しくできたらやっぱり生きてる時に食べて欲しかった。「ヒャッホウ!」とか言いながら喜んで食べてくれただろうに。あなたの声が聞こえないのは寂しいね。
いつも朗らかな人だった。ジョークを言うのが好きだった。でも大抵面白くなかった。いつも言って自分だけ笑っていた。働き者でいつも一生懸命だった。でもちょっとドジだった。自信に満ちているようで本当は怖がりだった。
頑丈な体で家族で一番元気だったのに。
どうしてあんなに原罪を恐れるようになったの。何故あそこまで自分を追い詰め自分の体にムチ打つような生活をしたの。
普通に家に帰って来てくれれば良かったのに。普通の人で良かったのに。特別に誰かに認められなくても家族が元気で楽しく過ごせたらそれで良かったじゃない。
思い出すと感謝の気持ちだったり可哀想に思ったり愚痴を言いたくなったり色々でごめんなさい。
家族3人揃っていたとき日曜日の朝はパンケーキという習慣だった。メープルシロップは必ずアメリカの本物のシロップを買っていた。時にバナナやカボチャやブルーベリー等を入れて楽しんだ。一度「パンプキンパンケーキとブルーベリーパンケーキのどっちがいい?」と聞いた時「うーん、、、」と身悶えして悩んだ姿を思い出しておかしい。
今日のはヨーグルト米粉パンケーキに友人が庭のブルーベリーで作ったジャムをくれたのでそれをのせた。コーヒーは前夜仕込んだ水出しコーヒーだ。少ししてからそれを下げて食べた所自分でもびっくりするほど美味しい。私まだ少し進化してる?
あなたの遺影に向かって「美味しいね」と言って食べた。魂になったら食べる必要はないからお供えって本当に喜ぶのかしら?と時々思う。こちらの気持ちやエッセンスのようなものを受け取ると言う人もいる。でもこんなに美味しくできたらやっぱり生きてる時に食べて欲しかった。「ヒャッホウ!」とか言いながら喜んで食べてくれただろうに。あなたの声が聞こえないのは寂しいね。
いつも朗らかな人だった。ジョークを言うのが好きだった。でも大抵面白くなかった。いつも言って自分だけ笑っていた。働き者でいつも一生懸命だった。でもちょっとドジだった。自信に満ちているようで本当は怖がりだった。
頑丈な体で家族で一番元気だったのに。
どうしてあんなに原罪を恐れるようになったの。何故あそこまで自分を追い詰め自分の体にムチ打つような生活をしたの。
普通に家に帰って来てくれれば良かったのに。普通の人で良かったのに。特別に誰かに認められなくても家族が元気で楽しく過ごせたらそれで良かったじゃない。
思い出すと感謝の気持ちだったり可哀想に思ったり愚痴を言いたくなったり色々でごめんなさい。
5年目の命日
今年の夏は暑い。命日の今日は最高気温40度近くの予報の殺人的暑さだ。
あなたが逝った5年前も酷暑の夏だった。暑い日はそれを思い出してつらい。
ピーターが亡くなって教室を閉鎖する事になり生徒さん達とお別れ会をしていた時衝撃的な話を聞いた。あの酷暑の中、帰国する牧師の引っ越しの作業を引き受け、さらに大量に出た家具等の大きな不要品をゴミに出す為教室に持ってきて仕事の合間にベランダでノコギリで細かくする作業におわれ疲労困憊だったというのだ。先生は本当に大変でした、と言われたが普段人一倍元気な人が疲労して見えたのはよほどの状態だったと思う。あの時期のコンクリートのベランダは何十度だったろう。それにピーターは金曜日と日曜日は断食をしていた。仕事のスケジュールを考えると引っ越しを手伝えるような日はその両日以外にない。そんな無理をさせて、、それを終わらせ直後に青少年のキャンプに講師として出かけたのだが準備の為に睡眠も削っていた。酷暑の金曜日に出発、その日も断食。日曜日の早朝に倒れた時既に心臓も呼吸も止まっていた。病院に運ばれ検査をしても何も病気が見つからず「原因不詳」とされた。医者にそう説明された時「じゃ何で死んだんですか」という言葉が喉元まで出かかったが声を発することも出来なかった。あまりに突然で何を言われても飲み込めなかった。
しかし生徒さん達の証言を繋ぎ合わせるとこれは明らかに過労死だ。心臓が止まってしまうほど無理をしたのだ。牧師はピーターより年配だがいくらピーターが自分より若いと言っても断食をしている64歳のピーターに何故そこまでの重労働をさせたのだろう。何故自分の責任でゴミの処理くらいしなかったのだろう。ピーターの命はそんな事の為に削られるほど安いものだったのだろうか。
そうした事の直後に亡くなったというのに当の牧師から遺族の私達にはひとことの言葉もなかった。ありがとうもすみませんでしたもなかった。教会の人は死んで天国に行ったのだから何も心配ないと私に言った。
信仰って時には残酷だ。あなたはあの教会に行かなかったらこんなに早く死ぬことはなかった。そう言ったらあなたは怒るだろうか。信じていたものね。それともあの世に行ったらもっと色々な事が見えてそうだったね、と言うだろうか。
どう思っているのでしょうね。命日に他に書きたいことがあったのにあまりに暑いからこんな事を思い出してしまった。
あなたが逝った5年前も酷暑の夏だった。暑い日はそれを思い出してつらい。
ピーターが亡くなって教室を閉鎖する事になり生徒さん達とお別れ会をしていた時衝撃的な話を聞いた。あの酷暑の中、帰国する牧師の引っ越しの作業を引き受け、さらに大量に出た家具等の大きな不要品をゴミに出す為教室に持ってきて仕事の合間にベランダでノコギリで細かくする作業におわれ疲労困憊だったというのだ。先生は本当に大変でした、と言われたが普段人一倍元気な人が疲労して見えたのはよほどの状態だったと思う。あの時期のコンクリートのベランダは何十度だったろう。それにピーターは金曜日と日曜日は断食をしていた。仕事のスケジュールを考えると引っ越しを手伝えるような日はその両日以外にない。そんな無理をさせて、、それを終わらせ直後に青少年のキャンプに講師として出かけたのだが準備の為に睡眠も削っていた。酷暑の金曜日に出発、その日も断食。日曜日の早朝に倒れた時既に心臓も呼吸も止まっていた。病院に運ばれ検査をしても何も病気が見つからず「原因不詳」とされた。医者にそう説明された時「じゃ何で死んだんですか」という言葉が喉元まで出かかったが声を発することも出来なかった。あまりに突然で何を言われても飲み込めなかった。
しかし生徒さん達の証言を繋ぎ合わせるとこれは明らかに過労死だ。心臓が止まってしまうほど無理をしたのだ。牧師はピーターより年配だがいくらピーターが自分より若いと言っても断食をしている64歳のピーターに何故そこまでの重労働をさせたのだろう。何故自分の責任でゴミの処理くらいしなかったのだろう。ピーターの命はそんな事の為に削られるほど安いものだったのだろうか。
そうした事の直後に亡くなったというのに当の牧師から遺族の私達にはひとことの言葉もなかった。ありがとうもすみませんでしたもなかった。教会の人は死んで天国に行ったのだから何も心配ないと私に言った。
信仰って時には残酷だ。あなたはあの教会に行かなかったらこんなに早く死ぬことはなかった。そう言ったらあなたは怒るだろうか。信じていたものね。それともあの世に行ったらもっと色々な事が見えてそうだったね、と言うだろうか。
どう思っているのでしょうね。命日に他に書きたいことがあったのにあまりに暑いからこんな事を思い出してしまった。