承継
軌跡

仁木他喜雄の人生史 ― 時代とともに歩んだ音楽人生

1901年(明治34年)― 北海道に生まれる

1901年11月14日、仁木他喜雄は北海道札幌郡篠路兵村に生まれました。

翌1902年、一家は滝川村幌倉、現在の滝川市東滝川町付近へ移住します。

仁木他喜雄にとって東滝川は、多感な少年時代を過ごし、後の音楽家としての原点となった大切な故郷でした。




1914年(大正3年)― 音楽家を志し、故郷を旅立つ

少年時代から音楽への強い思いを抱いていた仁木他喜雄は、1914年、音楽家を志して東滝川を離れます。

当時開業して間もない幌倉駅、のちの東滝川駅から一人旅立ったと伝えられています。

北海道の小さな町から始まったこの旅が、やがて日本の音楽史に名を残す作曲家・編曲家への第一歩となりました。

大正時代 ― 音楽を学び、演奏家への道へ

故郷を離れた仁木は、音楽の勉強を本格的に始めます。

森音楽学校で学んだほか、欧米航路の客船でバンド楽士を務めるなど、若い頃から西洋音楽やジャズ、オーケストラの音を実践の中で吸収していきました。

その後、作曲家・山田耕筰らのもとで学び、クラシック音楽の世界でも経験を重ねていきます。

仁木他喜雄が後に編曲家として発揮する、多彩な楽器を自在に組み合わせる力の土台は、この時期につくられていったと考えられます。

1926年(大正15年)― 新交響楽団の創設に参加

1926年、仁木他喜雄は新交響楽団の創設にティンパニ奏者として参加します。

新交響楽団は、後のNHK交響楽団へとつながる日本を代表するオーケストラです。

仁木は作曲家になる前に、プロのオーケストラ奏者として音楽の現場を経験していました。

この経験は非常に重要です。

さまざまな楽器がどのように響き合うのかを実際の演奏現場で知っていたことが、後の「編曲家・仁木他喜雄」を形づくった大きな要素だったと考えられます。

昭和初期 ― 作曲家・編曲家として頭角を現す

昭和に入ると、日本ではレコードや映画、ラジオが急速に普及し、大衆音楽の時代が始まります。

仁木他喜雄も、歌謡曲や映画音楽の世界へ活動の場を広げていきました。

旋律を作る「作曲」だけでなく、その曲をどの楽器で、どのようなリズムと響きで人々に届けるかを決める「編曲」の分野で、次第に高い評価を得るようになります。

編曲家とは、いわば、

「曲の音の設計図を書く人」

です。

仁木はその音の設計者として、日本のレコード音楽を支える存在となっていきました。

1939年(昭和14年)― 映画音楽の世界でも活躍

1939年公開の映画『純情二重奏』をはじめ、仁木他喜雄は数多くの映画作品の音楽を手がけるようになります。

映画とレコード、歌謡曲が強く結びついていった時代に、仁木の活動の幅も大きく広がっていきました。

1958年(昭和33年)― 56歳で逝去

1958年5月13日、仁木他喜雄は東京都で亡くなりました。

享年56。

音楽家としては、まだまだ多くの作品を生み出せる年齢での早すぎる死でした。

葬儀では、長く親交のあった歌手・二葉あき子が、仁木作曲の『別れても』を歌い、その死を悼んだと伝えられています。

1950年代 ― 数々の名曲を世に送る

仁木他喜雄は、生涯を通じて170曲を超える作品を作曲し、編曲は約700曲に及ぶと伝えられています。

代表作には、

『めんこい仔馬』
『高原の月』
『別れても』
『さよならルンバ』
『銀座の雀』

などがあります。

二葉あき子、藤山一郎、李香蘭、森繁久彌、越路吹雪など、昭和を代表する多くの歌手や俳優たちの音楽に関わりました。

一方で、編曲家という仕事は作詞家や作曲家、歌手ほど名前が表に出ません。

しかし、人々がラジオやレコードから実際に耳にした「音」をつくっていたのは編曲家です。

その意味で仁木他喜雄は、昭和という時代の音そのものをつくった一人だったと言えるでしょう。

そして故郷・東滝川へ

仁木他喜雄が少年時代を過ごした北海道滝川市東滝川には、現在、童謡『めんこい仔馬』を刻んだ仁木他喜雄顕彰歌碑が建立されています。

北海道を一人で旅立った少年は、やがて日本を代表する作曲家・編曲家となりました。

戦前。

戦争。

敗戦。

そして復興。

日本が大きく揺れ動いた昭和という時代を、仁木他喜雄は音楽とともに生きました。

『めんこい仔馬』が歌われた戦時下にも。

『リンゴの唄』が日本人を励ました敗戦直後にも。

越路吹雪が新しい戦後音楽を切り開いていった時代にも。

その背後には、仁木他喜雄がつくった「音」がありました。

仁木他喜雄――
人々の人生に寄り添う音をつくり続けた、昭和の「音の設計者」。

その足跡は、今も多くの歌の中に生き続けています。

1954年(昭和29年)― 越路吹雪『愛の讃歌』

1954年、越路吹雪が初めてレコードに吹き込んだ『愛の讃歌』の編曲を、仁木他喜雄が担当しました。

オーケストラとコーラスを生かした豊かな響きをつくりながらも、歌手の声を邪魔しない。

その絶妙なバランスは、仁木の編曲家としての力量をよく表しています。

越路吹雪という日本を代表する歌手の音楽的な土台を支えた人物の一人が、仁木他喜雄でした。

1951年(昭和26年)― 映画・歌謡界の第一線で活躍

1951年頃には、仁木と越路吹雪の組み合わせが広く知られるようになります。

同じ時期、仁木は『自由学校』『結婚行進曲』など映画音楽も数多く担当しています。

映画、レコード、舞台。

戦後の日本の娯楽文化が再び花開いていく中で、仁木はその中心で音をつくり続けました。

1950年代 ― 越路吹雪との出会い

戦後の仁木他喜雄を語るうえで欠かせない存在が、越路吹雪です。

宝塚歌劇団を退団して新しい歌手人生を歩み始めた越路吹雪と仁木は、日本コロムビア時代に数多くの作品で組むことになります。

越路は編曲を非常に大切にする歌手でした。

仁木のダイナミックで、日本人離れしたとも評されたオーケストレーションに強く惹かれ、音楽について多くを学んだと、後に岩谷時子が記しています。

仁木は単に伴奏を書く人ではありませんでした。

歌手の個性を見極め、その声が最も生きる「音の舞台」をつくる編曲家だったのです。

1945年(昭和20年)― 終戦、そして『リンゴの唄』

1945年8月、日本は敗戦を迎えました。

都市は焼け野原となり、食糧も物資も不足し、多くの人々が家族や住まいを失いました。

そのわずか数か月後、映画『そよかぜ』から生まれた『リンゴの唄』が日本中に広がっていきます。

作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正。

そして、この作品の完成した「音」の姿をつくる編曲に、仁木他喜雄が携わりました。

並木路子の明るい歌声とともに『リンゴの唄』は、敗戦直後の日本人の心に届いていきます。

暗く沈んでいた時代に流れた、明るく軽やかな響き。

『リンゴの唄』は、やがて「戦後を象徴する歌」の一つとなりました。

仁木家には、**「もともと哀調を帯びた曲を、仁木他喜雄が明るく前向きに聞こえるよう編曲した」**という趣旨の話も伝えられています。

このエピソードについては、今後、当時の録音資料や関係者の証言などを調査し、その事実関係をさらに明らかにしていきます。

1946年(昭和21年)― 戦後の音楽活動へ

終戦後も仁木他喜雄は、映画音楽、歌謡曲、レコード音楽の第一線で活動を続けました。

1946年には映画『満月城の歌合戦』などの音楽を担当。

戦争のために大きく変化した日本社会の中で、仁木の音楽もまた、戦時期の作品から戦後の明るい大衆音楽へと新しい時代を歩み始めます。

1940年(昭和15年)― 『お祖父さんの古時計』を編曲

現在『大きな古時計』として広く知られているアメリカの楽曲も、戦前の日本ですでに録音されていました。

1940年に録音された『お祖父さんの古時計』では、仁木他喜雄が編曲を担当しています。

海外の音楽を日本の聴衆に届ける仕事にも早くから携わっていたことは、仁木の音楽的な幅の広さを物語っています。

1940~1941年(昭和15~16年)― 『めんこい仔馬』

仁木他喜雄を代表する作品の一つが、サトウハチロー作詞の『めんこい仔馬』です。

東宝映画『馬』と結びついて広く知られるようになり、二葉あき子、高橋祐子らによって歌われました。

当時の日本は戦時体制を強めており、農村や家庭で育てられた馬の多くが軍馬として徴用される時代でした。

『めんこい仔馬』も、その時代背景と無関係ではありません。

しかし、その旋律は勇ましい軍歌とは異なり、どこか素朴で温かく、馬と暮らす人々の情景が浮かぶ作品となっています。

戦争という大きな時代の流れと、人と馬との素朴な愛情。

その両方を感じさせる作品として、現在まで歌い継がれています。

りんごの唄 編曲

 「りんごの唄」が流行した時代に起きていたこと 1. 終戦直後の混乱と復興の始まり(1945年)
  • 太平洋戦争が1945年8月に終わり、日本は焼け野原になっていました。
  • 食糧不足や物資不足が深刻で、人々は明日をどう生きるかに必死の状況。
  • そんな暗い世相の中で、「りんごの唄」は“明るく前向きな歌”として登場し、国民の心を励ましたと言われます。

 2. 映画『そよ風』(1945年)で全国的にヒット
  • 歌は並木路子さんが主演した映画『そよ風』で初めて披露されました。
  • 映画が上映されると、観客が涙しながら歌を聴いたというエピソードが残っています。
  • 戦後初の大ヒット歌であり、「戦後流行歌の第一号」とも呼ばれます。

 3. NHKラジオで頻繁に流れ、全国へ広がる
  • ラジオが最も身近な娯楽だった時代、NHKの音楽番組で「りんごの唄」が繰り返し流れました。
  • 戦争で塞ぎ込んでいた国民の心に明るさを取り戻したと言われ、
    **“戦後の復興の象徴”**的な存在となります。

 4. 闇市の活気と歌の広がり
  • 正規の物資がないため、各地に闇市(やみいち)が広がっていました。
  • 闇市のラジオや露店でも「りんごの唄」が流れ、多くの人の耳に届きました。
  • 特に若者たちの間で“希望の歌”として浸透。

 5. 並木路子の復帰と“癒しの象徴”
  • 歌った並木路子さん自身も、空襲で怪我を負い活動休止していた過去があります。
  • 「りんごの唄」で奇跡的な復帰を果たしたことから、彼女の成功物語も人々を励ましました。

 6. 経済・文化の再出発と歌の役割
  • GHQ占領下でさまざまな改革(教育改革、民主化、憲法制定)が進む中、
    大衆文化も再生期に入りました。
  • “戦前とは違う、明るく自由な文化”が求められた時期で、「りんごの唄」はその象徴的存在に。

 まとめ「りんごの唄」が流行した頃の日本は——

  • 戦後の混乱期で人々は不安と苦しさの中にいた
  • 明るく前向きな歌が国民の心を救った
  • ラジオ・映画を通じて全国的に人気が爆発
  • 戦後の新しい文化の出発点を象徴する歌となった
と言えます。

越路吹雪の裏にいた大編曲家、仁木 他喜雄

仁木は越路にとって重要な音楽的パートナーであり、そのダイナミックな編曲スタイルは、越路の歌声を引き立てる上で大きな役割を果たしました。また、仁木自身も作曲家として活躍し、多くのヒット曲を生み出しています。大きな古時計や愛の讃歌の編曲で越路吹雪さんと組んで有名でした。
平井堅の歌で有名になった「大きな古時計」(原題「My Grandfather’s Clock」)は、なんと戦前の昭和15年(1940)にレコーディングされていた、、、、、という話を、きのうの当ブログで紹介した。当時の邦題は「お祖父さんの古時計」だった。

 歌ミミー宮島、作詞門田ゆたか、編曲仁木多喜雄、演奏コロンビア・ジャズ・バンド。

 この顔ぶれのなかで、私はとくに仁木多喜雄(1901~58)という名前に愛着を覚える。といっても、氏の名前を私が知ったのは戦前ではない。戦後の昭和26年(1951)のことで、越路吹雪(1924~80)と常にワンセットとなって脳みその片隅に植えつけられたのである。

 当時、私は、宝塚歌劇団を飛び出し新たな活躍をし始めた越路吹雪の大ファンだったが、彼女の登場するところ、かならず指揮者か編曲者として仁木のクレジットがあったからだ。

 歌にからむストリング・セッションの美しさにうっとりとなったのは、生のステージだったか、SPレコードだったか?

 越路も仁木も、当時、日本コロムビア専属だったという事情もある。昔は、歌手、楽団だけではなく作詞家、作曲家もどこかのレコード会社と専属契約を結んでいたのですよ。
越路といえば「愛の賛歌」である。後年、彼女は、リサイタルごとに異なる編曲でこのシャンソンの名曲を歌ってみせたが、編曲者は夫君でもある内藤法美ひとりに限られていた。夫が編曲者を兼ねるとこういうことになりかねない。

 越路がいちばん最初に「愛の賛歌」をレコーディングしたのは、昭和29年(1954)のことで、編曲は仁木多喜雄。オーケストラ、コーラスをフルに使いゴージャス感を演出している。

 でありながら、歌を喰わないようにとバックの演奏はかなり抑え目である。これも仁木の配慮だろう。

 この時代の越路・仁木コンビの歌をお聴きになりたい向きは、次のようなアルバムでどうぞ。

 LP『思い出、、、、越路吹雪―1950~56―』
 CD3枚組『越路吹雪コロンビアイヤーズ』
 ともに日本コロムビアから。
後者のほうのライナーノーツに越路の座付き?作詞家の岩谷時子さんが、「越路吹雪のコロムビア時代と仁木先生」という一文を寄せている。以下、その一部を引用する。

 越路さんは宝塚時代から、歌は編曲が何よりも大切だと、非常に編曲に拘る人だった。仁木先生のダイナミックな日本人ばなれした編曲に出会ってからは、先生に傾倒し、歌について教えていただくことが多く、ながい間、公私ともにお世話になった。

 更に、、、、。

 オーケストラをバックに同時録音するので仁木先生は、いつも立会って下さっていた。先生は当時、まだ四十歳ではなかったかと思うが、身体も大きく、私たちにはずいぶん年長の大人に見えた。

 仁木は作曲もよくし、「めんこい仔馬」(作詞サトウ・ハチロー、歌二葉あき子、高橋祐子)という大ヒット曲も出している。東宝映画『馬』(監督山本嘉次郎、主演高峰秀子)の主題歌である。
昭和15年(1940)の作というから、「お祖父さんの古時計」を編曲したのと同じ年ということになる。

 蛇足ながら、この映画でチーフ助監督を務めた黒澤明に主演女優の高峰秀子が熱を上げた話は、今も語り草になっている。歴史的エピソードだから、ご存知の方々も多いでしょうが。

上記 安倍 寧 氏 オフィシャルブログより転記

代表作

歌謡曲映画音楽<音楽>

  • 仁木多喜雄 顕彰歌碑 内容必要事項 ※めんこい仔馬 音楽  ※歌を流すと歌詞が出る ※記念碑の設置マップへ 



仁木他喜雄顕彰歌碑

  1. 童謡「めんこい仔馬」は昭和16年に東宝映画「馬」の主題歌としてサトウハチローが作詞 滝川市出身の仁木他喜雄によって選曲された。
  2. 仁木他喜雄は 明治34年当時の札幌郡篠路兵村に生まれ 翌35年東滝川に移住し多感な少年期を過ごす。大正三年音楽家を志し開業間もないこの幌倉駅(旧称)からひとり旅立つ。
  3. その後、森音楽学校に学び欧米航路の客船バンド楽士を経て山田耕作に師事 新交響楽団(N響の前進)に所属する。さらにコロンビア専属となり歌謡曲の作曲編曲に携わる。
  4. 生涯の作曲数170余り 代表曲には「めんこい仔馬」「高原の月」「さよならルンバ」「銀座の雀」などあり また編曲は700曲に及ぶ。

仁木多喜雄 顕彰歌碑建立時記念写真

仁木多喜雄 顕彰歌碑建立時記念写真