りんごの唄 編曲
「りんごの唄」が流行した時代に起きていたこと 1. 終戦直後の混乱と復興の始まり(1945年)
2. 映画『そよ風』(1945年)で全国的にヒット
3. NHKラジオで頻繁に流れ、全国へ広がる
4. 闇市の活気と歌の広がり
5. 並木路子の復帰と“癒しの象徴”
6. 経済・文化の再出発と歌の役割
まとめ「りんごの唄」が流行した頃の日本は——
- 太平洋戦争が1945年8月に終わり、日本は焼け野原になっていました。
- 食糧不足や物資不足が深刻で、人々は明日をどう生きるかに必死の状況。
- そんな暗い世相の中で、「りんごの唄」は“明るく前向きな歌”として登場し、国民の心を励ましたと言われます。
2. 映画『そよ風』(1945年)で全国的にヒット
- 歌は並木路子さんが主演した映画『そよ風』で初めて披露されました。
- 映画が上映されると、観客が涙しながら歌を聴いたというエピソードが残っています。
- 戦後初の大ヒット歌であり、「戦後流行歌の第一号」とも呼ばれます。
3. NHKラジオで頻繁に流れ、全国へ広がる
- ラジオが最も身近な娯楽だった時代、NHKの音楽番組で「りんごの唄」が繰り返し流れました。
- 戦争で塞ぎ込んでいた国民の心に明るさを取り戻したと言われ、
**“戦後の復興の象徴”**的な存在となります。
4. 闇市の活気と歌の広がり
- 正規の物資がないため、各地に闇市(やみいち)が広がっていました。
- 闇市のラジオや露店でも「りんごの唄」が流れ、多くの人の耳に届きました。
- 特に若者たちの間で“希望の歌”として浸透。
5. 並木路子の復帰と“癒しの象徴”
- 歌った並木路子さん自身も、空襲で怪我を負い活動休止していた過去があります。
- 「りんごの唄」で奇跡的な復帰を果たしたことから、彼女の成功物語も人々を励ましました。
6. 経済・文化の再出発と歌の役割
- GHQ占領下でさまざまな改革(教育改革、民主化、憲法制定)が進む中、
大衆文化も再生期に入りました。 - “戦前とは違う、明るく自由な文化”が求められた時期で、「りんごの唄」はその象徴的存在に。
まとめ「りんごの唄」が流行した頃の日本は——
- 戦後の混乱期で人々は不安と苦しさの中にいた
- 明るく前向きな歌が国民の心を救った
- ラジオ・映画を通じて全国的に人気が爆発
- 戦後の新しい文化の出発点を象徴する歌となった
越路吹雪の裏にいた大編曲家、仁木 他喜雄
仁木は越路にとって重要な音楽的パートナーであり、そのダイナミックな編曲スタイルは、越路の歌声を引き立てる上で大きな役割を果たしました。また、仁木自身も作曲家として活躍し、多くのヒット曲を生み出しています。大きな古時計や愛の讃歌の編曲で越路吹雪さんと組んで有名でした。
平井堅の歌で有名になった「大きな古時計」(原題「My Grandfather’s Clock」)は、なんと戦前の昭和15年(1940)にレコーディングされていた、、、、、という話を、きのうの当ブログで紹介した。当時の邦題は「お祖父さんの古時計」だった。歌ミミー宮島、作詞門田ゆたか、編曲仁木多喜雄、演奏コロンビア・ジャズ・バンド。
この顔ぶれのなかで、私はとくに仁木多喜雄(1901~58)という名前に愛着を覚える。といっても、氏の名前を私が知ったのは戦前ではない。戦後の昭和26年(1951)のことで、越路吹雪(1924~80)と常にワンセットとなって脳みその片隅に植えつけられたのである。
当時、私は、宝塚歌劇団を飛び出し新たな活躍をし始めた越路吹雪の大ファンだったが、彼女の登場するところ、かならず指揮者か編曲者として仁木のクレジットがあったからだ。
歌にからむストリング・セッションの美しさにうっとりとなったのは、生のステージだったか、SPレコードだったか?
越路も仁木も、当時、日本コロムビア専属だったという事情もある。昔は、歌手、楽団だけではなく作詞家、作曲家もどこかのレコード会社と専属契約を結んでいたのですよ。
越路といえば「愛の賛歌」である。後年、彼女は、リサイタルごとに異なる編曲でこのシャンソンの名曲を歌ってみせたが、編曲者は夫君でもある内藤法美ひとりに限られていた。夫が編曲者を兼ねるとこういうことになりかねない。
越路がいちばん最初に「愛の賛歌」をレコーディングしたのは、昭和29年(1954)のことで、編曲は仁木多喜雄。オーケストラ、コーラスをフルに使いゴージャス感を演出している。
でありながら、歌を喰わないようにとバックの演奏はかなり抑え目である。これも仁木の配慮だろう。
この時代の越路・仁木コンビの歌をお聴きになりたい向きは、次のようなアルバムでどうぞ。
LP『思い出、、、、越路吹雪―1950~56―』
CD3枚組『越路吹雪コロンビアイヤーズ』
ともに日本コロムビアから。
後者のほうのライナーノーツに越路の座付き?作詞家の岩谷時子さんが、「越路吹雪のコロムビア時代と仁木先生」という一文を寄せている。以下、その一部を引用する。
越路さんは宝塚時代から、歌は編曲が何よりも大切だと、非常に編曲に拘る人だった。仁木先生のダイナミックな日本人ばなれした編曲に出会ってからは、先生に傾倒し、歌について教えていただくことが多く、ながい間、公私ともにお世話になった。
更に、、、、。
オーケストラをバックに同時録音するので仁木先生は、いつも立会って下さっていた。先生は当時、まだ四十歳ではなかったかと思うが、身体も大きく、私たちにはずいぶん年長の大人に見えた。
仁木は作曲もよくし、「めんこい仔馬」(作詞サトウ・ハチロー、歌二葉あき子、高橋祐子)という大ヒット曲も出している。東宝映画『馬』(監督山本嘉次郎、主演高峰秀子)の主題歌である。
昭和15年(1940)の作というから、「お祖父さんの古時計」を編曲したのと同じ年ということになる。
蛇足ながら、この映画でチーフ助監督を務めた黒澤明に主演女優の高峰秀子が熱を上げた話は、今も語り草になっている。歴史的エピソードだから、ご存知の方々も多いでしょうが。
上記 安倍 寧 氏 オフィシャルブログより転記
代表作
歌謡曲
- 「めんこい仔馬」(二葉あき子、高橋祐子)
- 「蘇州の夜」(李香蘭)
- 「高原の月」(霧島昇、二葉あき子)
- 「別れても」(二葉あき子)
- 「さよならルンバ」(二葉あき子)
- 「若者よ恋をしろ」(中島孝)
- 「手っ取り早い唄」(森繁久彌)
- 「銀座の雀」(森繁久彌)
- 「上海夜曲」(藤山一郎)
- 純情二重奏(1939年、佐々木康監督)
- そよかぜ(1945年、佐々木康監督)
- 満月城の歌合戦(1946年、マキノ正博監督)
- 自由学校(1951年、大映版、吉村公三郎監督)
- 右門捕物帖帯とけ仏法(1951年、安田公義監督)
- 結婚行進曲(1951年、市川崑監督)
- 恋化粧(1955年、本多猪四郎監督)
- 三つ首塔(1956年、小林恒夫・小沢茂弘監督)
- 仁木多喜雄 顕彰歌碑 内容必要事項 ※めんこい仔馬 音楽 ※歌を流すと歌詞が出る ※記念碑の設置マップへ