承継
この追悼サイトは、 ヨハン・ シュトラウス2世(作曲家・指揮者「ワルツの王」)さまのために作成されました。

享年73歳 、誕生日 1825年10月25日、命日 1899年6月3日
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ヨハン・シュトラウス2世(ドイツ語: Johann Strauss II. (Sohn), 1825年10月25日 - 1899年6月3日)は、オーストリアウィーンを中心に活躍した作曲家指揮者

ヨハン・シュトラウス1世の長男。弟にヨーゼフ・シュトラウスエドゥアルト・シュトラウス1世が、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる。(シュトラウス家も参照)

概要[編集]
生涯のほとんどをウィンナ・ワルツポルカなどの作曲に捧げ、『美しく青きドナウ』、『ウィーンの森の物語』、『皇帝円舞曲』などのよく知られたワルツを数多く生み出したオーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な支持を獲得し、「ワルツ王」、「ウィーンの太陽[1]」、当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と対比する形で「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれた。のちにオペレッタの分野にも進出して、オペレッタの最高傑作といわれる『こうもり』などを生み出し、「オペレッタ王」とも呼ばれるようになった[2]

毎年元日に行われる「ウィーン・フィルニューイヤーコンサート」では、彼を中心とするシュトラウス・ファミリーの作品をメインにプログラムが組まれる。

音楽への関心[編集]
ヨハンの音楽家の夢を応援した。自分の誕生時にはすでにウィンナ・ワルツの作曲家として著名だった父ヨハンに影響を受けて、ヨハンは音楽家に憧れるようになった。しかし父のほうは、音楽家が浮き草稼業であることを知っていたので、息子たちを音楽家にだけは死去するまで絶対にさせるつもりはなかった[8][9][10]。息子たちが楽器に触れることを固く禁じたが[11]、市民の教養として日常的に行われていたピアノの練習だけは例外的に認められていた[12][13]。シュトラウス家には父ヨハンのリハーサル場があり、そこからは演奏の音がよく漏れていた。ヨハンは弟ヨーゼフとともにそれを注意深く聴きとって、連弾して遊んでいた。父は息子たちのピアノに全く関心がなかったが、あるとき楽譜出版業者のハスリンガーからこのことを伝えられて驚いた[13]。そして部屋に呼び入れられたヨハンとヨーゼフは、父の前でいつものように連弾した。父は満足げに「お前たち、誰にもひけをとらないぞ」と語り、ふたりはそれぞれフード付きの上等なマントを褒美に与えられた[13]

幼少期のヨハンは、サルマンスドルフという村にある母方の祖父母の家でよく夏を過ごしていた[14]1830年、6歳の時に祖父の家の小さな卓上ピアノで、36小節のみからなるワルツを作曲し、アンナがそれを譜面に写し『最初の着想』と名付けた[14]。また、5分で曲を作ってヨーゼフに歌わせたこともある、とのちに本人が証言している[15]

音楽家に憧れるヨハンにしてみれば、父から許されたピアノを弾くだけでは到底満足がいかなかった。父のようにヴァイオリンを弾きたかったため、わずか8歳の時に、同じアパートに住む14歳の少女と近所の裁縫師の息子をピアノの弟子とし、授業料を取るようになった[11]。こうして自ら貯めた金銭をもとにヴァイオリンを買ったヨハンは、鏡の前に立って父親をまねてヴァイオリンの練習をするのを日課とした[4]。ところがある日、この練習が父ヨハンに見つかってしまう。父は激怒し、ヨハンが手に持っていたヴァイオリンを奪って叩き壊してしまった[14]
音楽家デビュー[編集]
250px-JohannStraussSohnca1850.jpg当時18歳、デビューしたてのヨハン・シュトラウス2世「ダンスの夕べ(ソワレ・ダンサント)」と広告されたが、当日は事実上のコンサートとなった1844年、ヨハン2世は修行を終え、デビューコンサートに向けて準備を開始した[19]。ライバルだったヨーゼフ・ランナー1843年に世を去った後、父ヨハンはウィーンのダンス音楽の覇権を掌握していた。そんな状況において、自身と同名の息子が挑戦してきたことに父は強い危機感を覚えた。息子のデビューを妨害すべく、父はウィーン中の名だたる飲食店に圧力をかけ、配下の楽団員には息子に味方することを禁じ、さらには新聞記者を買収して息子の中傷記事を書かせようとすらした[19]。これらの父の動きに対し、ヨハンも負けじと対抗した。まだ父の息のかかっていない新しい飲食店に徹底的にアピールし、そして埋もれた有能な若手を中心とした音楽家の発掘に努め、さらに提灯記事を書いてくれる新聞社とも契約を結んだ[20]

デビューコンサートは10月15日、シェーンブルン宮殿近くのカジノ・ドームマイヤードイツ語版)に決まった。発掘してきた音楽家で独自の楽団を作ったヨハンは、定刻の午後6時に登場し[21]、父と同じスタイルの「ヴァイオリンを演奏しながら華麗に指揮をする」というやり方で、指揮者としてデビューした[20]。この日のために、デビューを意識した題名の新曲が作られ、演奏された[20]。以下はデビューコンサートで演奏されたヨハン2世の楽曲である

  • ワルツ『記念の詩』(op.1)
  • 『デビュー・カドリーユ』(op.2)
  • ポルカ『心ゆくまで』(op.3)
  • ワルツ『どうぞごひいきに』(op.4)
ヨハン2世はこのデビューコンサートによって、指揮者・ヴァイオリン奏者・作曲家としての才能を自らが備えているということを公衆の前で証明してみせた[22]。10月19日付の『Der Wanderer』誌上でフランツ・ヴィーストは、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉を残した[23]。演奏会は大成功であったが、宣伝のチラシには大きく「ヨハン・シュトラウス」と印字されていたし、デビューコンサートを締めくくったのは父の代表作『ローレライ=ラインの調べ』であった[22]宮廷舞踏会音楽監督にまでなっていた父ヨハンの人気を無視することは不可能だったのである[22]

ともかく、こうして父とはライバル作曲家となり、互いに競争を余儀なくされることになった[21]。第二の「ワルツ合戦」が幕を開けたこの年、母アンナは夫に離縁状を叩きつけ、離婚が正式に成立した。1846年から1847年の間に、シュトラウス親子は同じオペラに基づく楽曲3つをそれぞれ作曲した[24]。これらはいずれもカドリーユであることから、「カドリーユ対決」と呼ばれる[24]。しかしやがて親子は和解し、音楽上の協力までするようになったという[12]
          ウィーン中央墓地の墓碑。右はブラームスの墓         黄金のヨハン・シュトラウス記念像
    ウイーン中央墓地の墓碑       黄金のヨハン・シュトラウス
     右は、ブラームスの墓           記念像

作品[編集]
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軌跡

(幼少期)

1825年10月25日、ウィーンの数キロ南に位置するザンクト・ウルリッヒドイツ語版)地区の、ロフラノ通り76番地で誕生した[3][4]。シュトラウス家は遠くユダヤ系ハンガリー人の血を引いていることは間違いないと思われるが、このことがヨハン2世の生前に何らかの形で言及された記録は残っていない。後年、彼はハンガリーに題材をとった作品を多く残しているが、そのことと自らの家系を結び付けた発言も特にない。また、数世代も前の改宗まで遡って身元調査的にユダヤ人呼ばわりする差別が行われ始めたのはナチスからであるが、ヒトラーが大のシュトラウスファンであったため、やはりシュトラウス家の遠祖に関して調査されることはなかった。したがって、資料的にシュトラス家とユダヤ教徒を結びつける確定的データは発掘されていない。なお、シュトラウスという姓自体がユダヤ固有というのは誤りであり、南ドイツ地方ではごくありふれた名前である。 父は音楽家ヨハン・シュトラウス1世、母は居酒屋の娘マリア・アンナ・シュトレイムである。できちゃった結婚であり、母がヨハンを身ごもったと発覚したことが両親の結婚のきっかけとなった[5]