この想いでサイトは、私たちの愛する人 早川徳次さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:早川徳次(はやかわ とくじ)
経営理念には「いたずらに規模のみを追わず・・・」と書かれており、「身の丈経営」が育まれた。そうした企業風土は独自に開発に成功した液晶技術で飛躍し「液晶のシャープ」として企業の規模が拡大したころから変わっていった。
幼少時から苦労を重ねたためか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1944年(昭和19年)、失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設[5]。終戦により分工場は解散したが、1946年(昭和21年)に復職希望者7名により再開。1950年(昭和25年)に失明者工場を法人化して「合資会社特選金属工場」(現・シャープ特選工業株式会社)を設立する。視覚障害者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く知られ、1952年(昭和27年)には社会事業家の賀川豊彦が世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーを伴い工場を視察。1954年(昭和29年)には三笠宮崇仁親王も訪問している。
1954年(昭和29年)2月、共働きや身体障害者家庭の子供を預るために[6]、本社近くの阿倍野区西田辺町に「育徳園保育所」(社会福祉法人育徳園)を開設。1976年(昭和51年)4月に阿倍野区阪南町へ新築移転し、1983年(昭和58年)4月には、隣接地に徳次の遺産で「育徳コミュニティセンター」が建設されている[7]。
1962年(昭和37年)9月、徳次の寄付金をもとに、東住吉区南田辺に大阪市立早川福祉会館が設立された[8]。また、1969年(昭和44年)11月、徳次が建設資金(3000万円)を寄贈して、阿倍野区桃ケ池町に大阪市立阿倍野青年センター(現・桃ヶ池公園市民活動センター)が設立された[9]。
栄典[編集]
〇 人に真似される商品をつくれ
〇 やはり「お客様にとって一番重要なものは何か」を真剣に考えることに尽きると思い
ます。 お客様のクレームは何かしっかりと見極める。それを解決するために私た
は時間とお金を惜しみなく使う。お客様が得をするために私たちが損をするしかな
いのです。
〇 組織に嫌われるのが嫌なようでは大したことは出来ません。
〇 商売をするときは、金を儲けようなどと考えずに、ひたすら商道の本意を勤めなさい
よく商人の本意を守って努力すれば財を求めなくても集まり、豊かになることは計り
知れない。
〇 仕事を選ぶときに、ややこしく考えてしまうと理屈が先行しちゃう。 だから、でき
るだけシンプルに考えて選択していますね。 自分が本当に望んでいるのかどうか
その気持ちに添っていくべきだと思っています。
〇 古来、戦場でも退却は非常に難しいこととされ、一軍の存亡が多くこれにかかったこ
とはよく歴史に示されている。 私のところも会社の規模が膨れ上がっており、その
収縮の仕事はなかなか思うようにいかなかった。 etc.
早川徳次は大正から昭和にかけて電機メーカー・シャープを創業し、日本有数の総合電機メーカーへと成長させた実業家。早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)を発明したことでも知られる。日本でいち早くラジオ、テレビの試作に成功して業績を伸ばし、その後も太陽電池、卓上計算機などに進出して会社を発展させた。福祉活動にも力を注ぎ、障がい児のめの保育所や福祉施設、障害者が多く働く工場を設立した。

「地下鉄の父」と慕われる早川徳次 日本初の地下鉄を生み出した
1925年9月27日の東京地下鉄道 上野浅草間の起工式
地面に打ち込む杭の綱を握る人物が早川。

早川徳次墓 多磨霊園 東京都府中市多磨町4-6-28(15区1種4側)
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:早川徳次(はやかわ とくじ)
墓地:都立多磨霊園(マップ)〒183-0002 東京都府中市多磨町4丁目628
※ 銀座駅の日比谷線中二階メトロプロムナードの中央部に早川徳次の胸像がある
※ 銀座駅の日比谷線中二階メトロプロムナードの中央部に早川徳次の胸像がある
※ 戦前日本の実業家。東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創立者で、日本に地下鉄を紹介・導入したことから、「(日本の)地下鉄の父」と呼ばれる。
シャープ100年史によると「日本のエジソン」と呼ばれた早川徳次は大正元年に東京で金属加工業を開業し、社名につながったシャープペンシルの改良に成功して従業員200人を抱えるまでに事業を拡大させたが、12年の関東大震災で工場や妻子を失った。 失意の早川は、負債処理のため事業を譲渡、譲渡先への技術指導で大阪へ。
翌年8月に土地柄も性に合ったことから大阪で事業を興そうと決意した。 独創的な商品をいち早く市場に投入し「他社が真似するような商品を作れ」と口にしたことが原点だ。経営理念には「いたずらに規模のみを追わず・・・」と書かれており、「身の丈経営」が育まれた。そうした企業風土は独自に開発に成功した液晶技術で飛躍し「液晶のシャープ」として企業の規模が拡大したころから変わっていった。
幼少時から苦労を重ねたためか、事業の第一目的は社会への奉仕と言い切っている。1944年(昭和19年)、失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設[5]。終戦により分工場は解散したが、1946年(昭和21年)に復職希望者7名により再開。1950年(昭和25年)に失明者工場を法人化して「合資会社特選金属工場」(現・シャープ特選工業株式会社)を設立する。視覚障害者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く知られ、1952年(昭和27年)には社会事業家の賀川豊彦が世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーを伴い工場を視察。1954年(昭和29年)には三笠宮崇仁親王も訪問している。
1954年(昭和29年)2月、共働きや身体障害者家庭の子供を預るために[6]、本社近くの阿倍野区西田辺町に「育徳園保育所」(社会福祉法人育徳園)を開設。1976年(昭和51年)4月に阿倍野区阪南町へ新築移転し、1983年(昭和58年)4月には、隣接地に徳次の遺産で「育徳コミュニティセンター」が建設されている[7]。
1962年(昭和37年)9月、徳次の寄付金をもとに、東住吉区南田辺に大阪市立早川福祉会館が設立された[8]。また、1969年(昭和44年)11月、徳次が建設資金(3000万円)を寄贈して、阿倍野区桃ケ池町に大阪市立阿倍野青年センター(現・桃ヶ池公園市民活動センター)が設立された[9]。
栄典[編集]
- 1960年(昭和35年):藍綬褒章
- 1965年(昭和40年):勲三等瑞宝章
- 1968年(昭和43年):大阪市民表彰
- 1971年(昭和46年):大阪文化賞、大河内生産賞
- 1976年(昭和51年):勲二等瑞宝章
- 1978年(昭和53年):第29回NHK放送文化賞 主な著作[編集]
- 『私と事業』 衣食住社、1958年
- 『続 私と事業』 新しい衣食住、1961年
- 『私の考え方』 浪速社、1970年(新装改訂版:2005年、ISBN 4-88854-421-2)
- 『百秒百話わらく―早川徳次生誕百年記念』 新風書房、1993年、
〇 人に真似される商品をつくれ
〇 やはり「お客様にとって一番重要なものは何か」を真剣に考えることに尽きると思い
ます。 お客様のクレームは何かしっかりと見極める。それを解決するために私た
は時間とお金を惜しみなく使う。お客様が得をするために私たちが損をするしかな
いのです。
〇 組織に嫌われるのが嫌なようでは大したことは出来ません。
〇 商売をするときは、金を儲けようなどと考えずに、ひたすら商道の本意を勤めなさい
よく商人の本意を守って努力すれば財を求めなくても集まり、豊かになることは計り
知れない。
〇 仕事を選ぶときに、ややこしく考えてしまうと理屈が先行しちゃう。 だから、でき
るだけシンプルに考えて選択していますね。 自分が本当に望んでいるのかどうか
その気持ちに添っていくべきだと思っています。
〇 古来、戦場でも退却は非常に難しいこととされ、一軍の存亡が多くこれにかかったこ
とはよく歴史に示されている。 私のところも会社の規模が膨れ上がっており、その
収縮の仕事はなかなか思うようにいかなかった。 etc.
早川徳次は大正から昭和にかけて電機メーカー・シャープを創業し、日本有数の総合電機メーカーへと成長させた実業家。早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)を発明したことでも知られる。日本でいち早くラジオ、テレビの試作に成功して業績を伸ばし、その後も太陽電池、卓上計算機などに進出して会社を発展させた。福祉活動にも力を注ぎ、障がい児のめの保育所や福祉施設、障害者が多く働く工場を設立した。

「地下鉄の父」と慕われる早川徳次 日本初の地下鉄を生み出した
1925年9月27日の東京地下鉄道 上野浅草間の起工式
地面に打ち込む杭の綱を握る人物が早川。

早川徳次墓 多磨霊園 東京都府中市多磨町4-6-28(15区1種4側)
- ※このサイトは、早川徳次に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝