承継
軌跡

随筆  「時(とき)」     岡本寿美子          

絶え間なく流れる時、誰にも平等に流れる時を、ことさらに身近く感じて生きてきたように思う。
昭和二十年一月の末、東京を襲った初の空襲が父を奪った。兄が十六才、私が十五才の時である。母はすでに他界し、父子三人暮らしであった。被害のあった方面へ出掛けたまま帰らぬ父を探し、見知らぬ街の病院、交番のあちこちを尋ね、駆けずり廻る。
身も心もボロボロになって家路をたどる道すがら、生きていてほしい、今頃無事帰って夕飯の支度をしているのでは、などと一縷の望みを期待した。だが冬の窓は寒々と暗かった。
この暗いタイムトンネルから一刻も早く抜け出たい。焦燥感だけが先走る。探し尋ねて三日目、その街の公会堂で遺留品により、父の死を確認した。が遂に遺体には逢えずじまいだった。暗く澱んだあの日々は流れることなく、今もなお胸の奥深くとどまっている。
二月初めの大雪の日、父の遺骨を貰いに行った。ぼたん雪が寺の境内を真白に覆いつくしていたことだけが、妙に灼きついている。今日でも雪が降ると、あの境内の白い“刻”が音をたてて逆流してくる。
戦争が終わって行く宛のない私達は、遺骨を背負い地図を頼りに父の故郷へむかった。京都市内からのバスは、戦中没収されたままで三十粁の山越えを余儀なくされた。道中雨に遭ったが黙々と歩き続ける。渓谷と山林に囲まれた夜の峠路は、ふり返るさえ無気味で何度も足がすくんだ。深夜暫く父の生家へたどり着く。ずぶ濡れと疲労で、その夜高熱を出したのを記憶している。
父は、代々天理教であるのを厭い十七才で出奔、苦労の末事業を為し得たが、それなりに生家の人達と疎遠だった事と、加えて複雑な事情が搦み、私達は招かれざる雰囲気に一週間程で戦後の東京へ引返した。父は先祖の片隅に埋葬して貰い、肩の荷を降ろす事が出来た。
激動の東京での厳しさは、一言ではいい尽くせないものがあった。苦しい現実から逃れるすべもなく、ただひたすら流れる時に救を求めながら、自己を失うまいと必至の歳月を重ねてきた。大阪、京都と離ればなれにあった父母をこの春の彼岸を機に川越の墓園に迎える運びとなり、それぞれの生家を何十年ぶりかで訪れた。母方では“祖母”も母に近い人達もこの世になく、祖母が生前守り続けてくれた遺牌と古びた一葉の写真を貰い受けてきた。京の里も同様に、時代の移り変りは如実であった。古めかしいものはことごとく遠い昔へと時が運び去り、父母につながる淡い思い出も更に淡いものになってしまった。生れ故郷から全く思いも及ばぬ地へ運ばれてきた、父母の望郷のつぶやきがきこえてくるような気もするが、それも時が解決して永久のやすらぎを得てほしいと願っている日日である。