承継

本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)
墓地玉林寺(マップ)〒110-0001 東京都台東区谷中1丁目7−15
戒名:千久院殿金剛貢力優梢禅大居士」
横綱千代の山・千代の富士記念館:(マップ)北海道松前郡福島町福島190

入り口の両横綱_横綱千代の山・千代の富士記念館


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千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)、1955年昭和30年)6月1日 - 2016年平成28年)7月31日)は、1970年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の大横綱。位階従四位。血液型はA型。     国民栄誉賞受賞者


来歴[編集]秋元少年の角界入り[編集]秋元貢は1955年、北海道松前郡福島町で漁師の家に誕生。父は筋肉質というほどではなかったが骨太で、貢に骨格面が遺伝したものと見られる[2]。子供の頃から漁業を手伝うことで自然に足腰が鍛えられ、運動神経が抜群で最初はスポーツとしてはバスケットボールを行っていた[2]特に福島町立福島中学校陸上競技部では走り高跳び三段跳びの松前郡大会で優勝し[3]、中学時代は走り高跳び1m62、三段跳びは12m58という記録が残っている[2]。「オリンピック選手でもいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった
小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを見せる取り口[5]で順調に出世して、1974年11月場所で19歳5ヶ月にして十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた[4]。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

肩脱臼との戦い[編集]幕下時代は投げに頼った強引な相撲が目立ち、このことが肩の脱臼癖を招くこととなった[11]1973年3月場所13日目、白藤との取組で左腕をねじられた際に左肩を脱臼した。このときは医者に相手にされず湿布でしのいだが、翌5月場所3番相撲、立山との取組で二本差しになり左から投げを打ったところその左腕を抱えられた瞬間に再度脱臼し、休場に追い込まれた。三段目に下がった翌7月場所では場所前の稽古でまた左肩を脱臼したが、痛みに耐えて出場し6勝を挙げた。新十両の1974年11月場所でも11日目の隆ノ里との取組で土俵下に転落した際に左肩を脱臼している。
最初の幕下からの5年間で公式には7回、部屋で半脱臼したものも含めれば10回を超える脱臼を繰り返した[13]。その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かし、力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたが、それは左肩へますます負担をかけ、度重なる脱臼に悩まされることとなったけがの影響で2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた[14]

1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。この頃から師匠(北の富士)の指導で脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲を身に付ける[15]。その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした
肩を鋼の筋肉で固めるというけが防止策を見出すこととなった。毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励み、当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという[補足 6][19]

ウルフフィーバー[編集]新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たした。7月場所後の横綱審議委員会ではわずか10数分の審議で「歴代横綱に比べてそん色がない」[23]との考えで委員が一致し、満場一致で横綱推薦を決めた。
1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した[5]。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得た

1000勝到達〜現役引退[編集]1990年1月場所に優勝回数を30の大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[補足 14]。同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役にもなった。夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱の中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に北の湖と並び史上1位タイとなる幕内通算804勝目を上げて貫禄を見せ付けた。

主な成績[編集]通算成績[編集]
  • 通算成績:1,045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代3位)勝率.705
  • 幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代3位)勝率.761
  • 横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代3位)勝率.848
  • 大関成績:38勝7敗 勝率.844
  • 現役在位:125場所
  • 幕内在位:81場所(歴代10位)
  • 横綱在位:59場所(歴代3位)
  • 大関在位:3場所
  • 三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所)
  • 年間最多勝:3回
    • 1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)
  • 連続6場所勝利:83勝(1988年5月場所 - 1989年3月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し:11場所(1986年5月場所 - 1988年1月場所)
  • 幕内連続2桁勝利:9場所(1981年11月場所 - 1983年3月場所、1984年9月場所 - 1986年1月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1981年11月場所 - 1982年7月場所、1986年5月場所 - 1987年1月場所)
    • 通算連続勝ち越し・幕内連続2桁勝利・連続12勝以上勝利の記録については、大関及び横綱昇進を果たした1981年以降、年間全て皆勤した年が1982年と1985年の2年間に留まったため、歴代ベスト10には入っていない。しかし、初優勝を果たした1981年1月場所以降、大関・横綱時代に皆勤した場所で1桁勝利に終わった場所は皆無である。
  • 幕内最高優勝 31回   全勝優勝 7回
  • 三賞・金星[編集]
    • 三賞:7回
      • 殊勲賞:1回(1981年1月場所)
      • 敢闘賞:1回(1978年5月場所)
      • 技能賞:5回(1980年3月場所、1980年7月場所、1980年9月場所、1980年11月場所、1981年1月場所)
    • 金星:3個(三重ノ海2個、若乃花幹士1個)
  • ※注:このサイトは、千代の富士貢に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝                  
このメッセージは、 2023年3月16日に、イーライフ株式会社宇崎勝(イーライフ)さんが投稿
享年61歳という早過ぎる死は、多くの相撲ファンを嘆かせました。
潔良さは、千代の富士さんらしいかも知れませんが、もっと相撲協会を盛り上げて欲しかったと思っています。     合掌

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年3月16日に、イーライフ株式会社宇崎勝(イーライフ)さんが投稿
享年61歳という早過ぎる死は、多くの相撲ファンを嘆かせました。
潔良さは、千代の富士さんらしいかも知れませんが、もっと相撲協会を盛り上げて欲しかったと思っています。     合掌
大切な方の思いで

(秋元少年の角界入り)

運動神経が抜群で陸上競技でオリンピック選手を目指せると言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。  九重(千代の山)と、貢の母の実家である大村家が遠戚であったが貢自身は乗り気がせず、両親も入門に大反対したため一旦は断った。
それでも九重は諦めずに、何とか入門にこぎつけた。

(肩脱臼との闘い)

投げに頼った強引な相撲から、たびたび脱臼し最初の幕下からの5年間で公式には7回、部屋で半脱臼したものも含めれば10回を超える脱臼を繰り返した。

(脱臼を克服~三役昇進へ)

病院長のアドバイスに従い、筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めるべく、毎日500回の腕立て伏せ・ウエイトトレーニングに励み、それまでの強引な投げから、前まわしを取っての一気の寄りという形を完成させた。
その後、三役昇進となってウルフ時代の幕開けとなる。
想いで

負けず嫌い、後継者育成

㈱スマートシニアさんが2023年3月20日に投稿
後継者の育成では「自分一人だけ強くてもダメだ」と、後輩の指導も熱心に行う。
自分もいつかは引退する。寄る年波には勝てない。
自分がいなくなった後、安心して相撲界を任せられる「後継者」を鍛え上げるのも横綱(リーダー)の仕事である。
晩年に鍛え上げた貴花田(後の貴乃花)が、きっちりとバトンを受け取り、平成の相撲界の屋台骨を支える事となる。

やることはやった、思い残すことはない!

㈱スマートシニアさんが2023年3月20日に投稿
このさわやかな言葉を残して、小さな大横綱、千代の富士は土俵を去った。

引退後は、2014年の理事選で落選した後には、協会の主流派から異例の“ヒラ委員への三階級降格”という仕打ちを受けた。ご遺族には相当な無念があったのでしょう。葬儀では、弔辞も理事長ではなく後援会の副会長が読んだ。土俵のある稽古場に祭壇が設けられ、周囲に数えきれないほどの献花が並んでいたが、そこも部屋の後援会関係者や友人の名前ばかり。聞けば、夫人が協会関係者からの献花はすべて断わったそうです。唯一、飾られていた相撲協会名での献花も一度は断わったと聞きます。