承継
この追悼サイトは、 中坊 公平(弁護士、法学士) 森永ヒ素ミルク事件・豊田商事事件で弁護団長を務める)さまのために作成されました。

享年83歳 、誕生日 1929年8月2日、命日 2013年5月3日
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中坊 公平(なかぼう こうへい、1929年〈昭和4年〉8月2日 - 2013年〈平成25年〉5月3日)は、日本弁護士大阪弁護士会)。法学士(京都大学)。元日弁連会長。新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)特別顧問

森永ヒ素ミルク中毒事件豊田商事事件の被害者救済に弁護団長、破産管財人として尽力し、日本弁護士連合会会長や整理回収機構の初代社長を務めた[1]

1999年に設置された司法制度改革審議会において委員として参加し、法科大学院裁判員制度の導入に尽力した[2]。戦後日本を代表する弁護士であり、「平成の鬼平」とマスコミ各社に名付けられ呼ばれた。

新人弁護士時代
1954年 中坊は24歳にして司法試験合格、翌年に司法修習生(9期)となるも給料はすべて自分の小遣い、父親を騙して無心と放蕩三昧の日々を送る。1957年 2年間の司法修習生活を終え「イソ弁」(居候弁護士の意)に。遊び癖が抜けず遊蕩三昧、月末は困窮していた。

1970年に40歳で大阪弁護士会副会長になる[1]

森永ヒ素ミルク中毒事件〜豊田商事事件〜豊島産業廃棄物問題
1973年 森永ヒ素ミルク中毒事件被害者弁護団と千日デパート火災テナント弁護団の団長に就任、被害者の救済などに奔走[1]。 1985年 金のペーパー商法で破産した豊田商事破産管財人に選任され、従業員給与の所得税の返還を実現、被害者への配当を増やした[1]。当時の活動は「プロジェクトX〜挑戦者たち〜悪から金を取り返せ」として取り上げられた。 1990年 日本弁護士連合会会長に就任[1]龍谷大学で客員教授として教鞭をとる。

1993年 豊島産業廃棄物問題について、地元住民と共に解決への活動を開始する[4]

整理回収機構
1996年 住宅金融債権管理機構の社長[注釈 1]1999年には整理回収機構の社長に就任[1]。その間、ニュースステーション等の報道番組に出演し難解な法律、金融問題を解説していた。

1998年12月7日、住宅金融債権管理機構代表であった中坊は、安田好弘弁護士を強制執行妨害罪警視庁捜査二課告発、安田弁護士は逮捕され、最高裁で罰金50万円の有罪判決が確定。(安田好弘#強制執行妨害事件(安田事件)

1999年7月27日 司法制度改革審議会の委員に就任(2001年7月26日まで)。

2000年3月7日 小渕恵三首相から内閣特別顧問に任命された。


2000年 住宅金融債権管理機構の社長であった時に、同機構において一部で病気静養中の人間の私財を差し押さえるなど不適切な債権回収が行われていたことが明らかになる。2003年 その責任を取る形で弁護士の登録取消届を提出[注釈 2]

2002年5月、司法改革国民会議が発足、運営委員に加わった[5]

2002年10月、機構は住宅金融専門会社から引き継いだ朝日住建の資産回収の際、買主とは43億円での売却で合意していた土地について、明治生命横浜銀行には「約32億円で売却する」と虚偽の説明を行い、その結果、2社はそれぞれ9億円で抵当権を抹消し、15億円を詐取したとして告発され有罪は避けられないと思われていた[6]が、東京地検特捜部は中坊ら4人について起訴猶予処分とした[7]。これを受けて中坊は責任をとる形で機構社長を辞任するとともに、所属する大阪弁護士会に登録抹消届と退会届を提出し弁護士を廃業[8]

中坊は、100人以上が死亡し、1万人を超える乳児が中毒となった大惨事となった森永ヒ素ミルク事件の弁護団長になることをためらっていたが、父親から「赤ちゃんに一体何の罪があるんだ! そんな情けない息子に育てた覚えはない」と一喝されて目覚めた。父親は小学校の先生から弁護士になった人で、息子に「公平」という名前をつけたのだ。

戦後最大の詐欺商法と呼ばれた豊田通商事件の破産管財人。高齢者から2000億円を集めて破産した事件。暴力団を使った妨害工の中、100億円を回収した

豊島産業廃棄物不法投棄事件。有害物質の投機で土壌や地下水が汚染された事件。この裁判で不法投棄物問題が国家の最優先問題となった

住宅金融専門会社というノンバンクがバブル経済の時期に抱えた6兆5000億円の不良債権の処理を巡り、政府が6850億円を支出し、債権回収の為に住宅金融債権管理機構が設立された。その初代社長が中坊公平である

注:このサイトは、中坊公平に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2026年5月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「平成の鬼平」とも呼ばれた程、森永ヒ素ミルク事件・豊田通商事件・豊島産業廃棄物不法投棄事件・住宅金融専門会社の不良債権処理問題など大事件に携わり尽力した。  弁護士の鑑とも云われました。   合掌

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このメッセージは、 2026年5月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「平成の鬼平」とも呼ばれた程、森永ヒ素ミルク事件・豊田通商事件・豊島産業廃棄物不法投棄事件・住宅金融専門会社の不良債権処理問題など大事件に携わり尽力した。  弁護士の鑑とも云われました。   合掌
軌跡

(出生から学生時代まで)

出生から学生時代まで
京都府京都市で、父・中坊忠治、母・富の次男として生まれる[3]。生家は裕福で、公平付きの女中がいた[3]。父親はかつて小学校の先生で、弁護士に転業したという経歴の持ち主だった[3]。母親もまた小学校の先生をしていた[3]

生まれつき弱虫で体も弱く目立たない存在だったと述懐している。

1942年 同志社中学へ入学。戦争中学徒動員で、三菱電機・伊丹製作所の工場へ働きに行く[3]。朝から晩まで工員として働いた[3]戦後物資のない時代、両親と田舎に帰り農業をした[3]

1948年 同志社大学(新制)入学。1949年 同志社外事専門学校編入を経て、1953年 京都大学法学部を卒業する。