承継
軌跡

(高等学校時代)

第一高等学校の在学中、東京本郷で求道学舎を主宰していた真宗大谷派僧侶の近角常観に接近し歎異抄の講義を聴きに通う。また、二年生のとき、倉石武四郎らと塩谷温資治通鑑の読書会に参加した。三年の時、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感激し、哲学専攻の決意を固めた[76]

(大学・大学院時代)

三木は1917年の京都帝国大学入学から、ドイツ留学に出発する1922年までの間に『哲学研究』誌上に四本の論文を執筆している。『個性の理解』(1920年7月)、『批判哲学と歴史哲学』(1920年9月)、『歴史的因果律の問題』(1921年4月)、『個性の問題』(1922年1月)、これらの論文はいずれも新カント派哲学の立場から"個と歴史"の関係、"個と普遍"の関係について考察した論文である。高校時代から岩波書店哲学叢書で新カント派哲学に親しんできた三木は、波多野精一から西洋哲学を学ぶためにはキリスト教理解と歴史研究が重要である、という示唆を受け歴史哲学を自身の中心的な研究テーマにした[77]

(ドイツ留学時代)

波多野の推薦で、岩波茂雄から出資を受けた三木は、6月24日高校時代から親しんできた新カント派哲学の大御所リッケルトのいるハイデルベルクに留学を果たした。当時のドイツはヴァイマル共和政で、第一次大戦後の混乱が続いており、ヴェルサイユ体制下での戦後秩序の回復を目指していた時期であった。ドイツは、敗戦国として1320億金マルクの賠償金の支払いを命じられ経済が逼迫していた。そこにフランスによるルール占領が拍車をかけ、急激なインフレが進行していた。このインフレのため日本から送られてくる留学資金が潤沢になり、三木のみならず多くの日本人がドイツに滞在していて知り合いとなる。歴史の羽仁五郎、カント研究の天野貞祐、後にハイデッガーについて学ぶ九鬼周造、哲学家から政治家になる北昤吉、キリスト教史学の石原謙、作家の阿部次郎、経済学の大内兵衛久留間鮫造藤田敬三糸井靖之黒正巌、哲学・宗教学の小尾範治鈴木宗忠大峡秀栄などがいた[19]