承継
軌跡

生涯

  • 貧乏な暮らし
江戸本所(墨田区両国)で旗本の子として生まれます。父は旗本でも役職がなかったので、貧乏な生活を送ります。少年時代には剣術に打ち込み、寝る間も惜しんで稽古をしました。
結婚してからも貧乏な生活が続きます。
正月に親戚にもらった餅を持って帰る途中、両国橋で風呂敷が破れてしまいます。暗い夜道を、餅を探すものの、大人になっても自立できていない惨めさを感じて、結局、拾った餅を川に投げ込んでしまいます。
  • 咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ
1850年、27歳で蘭学塾を開いた勝は、ペリー来航を目の当たりにして、身分を問わない有用な人材の登用や軍艦の建造などを書いた「海防意見書」を幕府に提出しました。
それが幕府の目に留まり、31歳で目付海防掛に取り立てられます。 翌年には、長崎の海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)の生徒として勉強を始めます。1860年、37歳のときに、初の太平洋横断となる咸臨丸の艦長として、サンフランシスコに西郷との信頼関係
  1. 西郷隆盛との関係
1868年(45歳のとき)、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際には、軍事総裁として旧幕府を代表し、新政府軍のリーダー西郷隆盛(さいごうたかもり)と相談して江戸城無血開城を決めます。
維新後も明治政府の要職に就き、元老院議官(げんろういんぎかん)や枢密顧問官(すうみつこもんかん)を歴任します。
西郷への信頼は厚く、西南戦争で西郷が亡くなった後、勝は西郷の名誉回復に努めました。そのかいあって、西郷の名誉は回復され、上野公園の銅像設置に至るのです。


勝は「外交の極意(ごくい)は誠心誠意にある」をモットーにしていました。
外交でごまかしは通用しない、真心で相手にぶつかるべきである、という姿勢です。向かいます。