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鈴木祥永(よしひさ)さんが語る

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
私が半田さんとお会いしたのは27年前。NTTの企業向け営業に就いた時からの私の師匠です。SE経験もあり高いスキルをお持ちでしたが、それ以上にお客様に対する誠実な姿勢と熱意に感銘しました。当時から半田さんはお洒落な出で立ちで企業訪問をされていました。先ロー0年ぶりにお会いした時も相変わらず独創的な服装と髪型で「あ~変わってないなあ」とほっこりした次第です。そんな半田さん、藤枝の魅力をたくさん発信され、藤枝での半田さんの活動が益々盛況となられることと祈念しております。

高校時代から就職まで

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
団塊世代の先駆け、昭和22年生まれはとにかく人数が多く、県内でも高校が多く新設されました。昭和38年4月、県立島田工業高校電気科へ進学しました。入学時の校舎は1棟のみ完成の3階建てで、そこが学び舎でした。

その後段階的に第二棟、専門棟、体育館、武道館が建ち、卒業時にようやく全てが完成しました。運動場整備などは勤労奉仕で生徒も働きました。2年生になると、島田市民病院に入院していた母を、学校帰りに見舞うのが日課になりましたが、衰弱していく姿を見るのがつらくて、いつも早めに切り上げていました。その母が亡くなり、葬儀ではのぞき窓から焼かれる母を見つめていました。そして炉を離れ外に出て煙突を仰ぎ見ると、母を焼いた一筋の煙が、少しくねりながらゆっくりと天に昇っていきました。その年の秋には、新幹線と東京オリンピックを初体験しました。3年に進級すると、就職が課題となり、先生から電力会社、可鍛鉄製造会社などを紹介されましたが、気乗りしませんでした。6月に入り電電公社から求人があり「何となく印象が良い」というあやふやな気分でしたが、数人の同級生とともに適性検査を受けただけで、あっけなく就職が確定しました。

小学校入学から中学時代

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿

昭和29年4月、六合村の六合小学校に入学。その年の10月に五和村の五和小学校にに転校しました。小学4年生のとき、五和村は金谷町に吸収合併されました。その当時の先生が、社会科になると授業から少し外れて経験談が入った面白い話をしてくれたものでした。その話を聞くのが楽しみで、社会科も好きになり、得意科目にもなりました。特に地理は、現在の自分の知識を遥かに凌駕していました。その後も私が旅好きなのは、ここがルーツと思われます。昭和35年に五和中学校に入学。翌年2年生の時に母の病が見つかりました。それまで、母からは「高校は、藤枝の普通高校へ行き、その上へ進め」と言われていました。しかし、父からは「母に腫瘍ができていて、治療は困難だが、可能な限り手を尽くしたい。費用も掛かるので、進学は高校までにしてくれ」と伝えられて、実業高校へ進路変更しました。この後数年間は、炊事、洗濯をはじめ家事全般、またド肥処理まで兄弟で分担しました。

【半田武祢夫生い立ち】

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿

昭和22年10月16日、島田市横井で、半田武次・富美の間に、3人兄弟の長男として生まれました。昭和24年、島田市(旧五和村)番生寺の父の叔母宅へ転居。そこは本宅の裏に建つ土蔵で、6畳程度の空間でした。揺らぐろうそくの灯りの中、激しい稲光と雷雨ははっきりとした総天然色で記憶に刻まれています。ここで昭和25年、次男「恭史(たかし)」が生まれました。同じ年に、島田市御請_(六合村)の母の薄い親類で農家の殿村家に転居しました。鉄格子のある長屋門の部屋で、ござ敷の6畳程度の板間に、2畳程度の土間がありました。昭和29年、三男「克嘉」がここで生まれました。産婆さんが到着する前、産気づいた母に乞われて片手を思い切り引っ張り、誕生の手助けをしました。この御請の家の前には、栃山川からの用水路(幅1m程度)があり、蛍の乱舞がそれは見事でした。背丈以上のベルト状に群がる中に手を入れれば、たちまち数百匹は捕獲できました。これはもうイルミネーションのようで、自分的には、約半世紀後に眼にしたラスベガスのそれよりも勝っています。

母を語る

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿

母富美は、大正11年、島田市大柳、小澤清一といさの次女として誕生。

隣家の半田武次と結婚、満州へ移住。新京の関東軍関連企業で働きました。戦況悪化に伴い38度線を歩いて越え、舞鶴港へ引揚げました。叔父の話では島田へ戻った母は「よれよれの服で浮浪者の様な姿で、手にブリキ缶1個を持っていた」とか。

父母はそれぞれ、命からがら故郷に戻りましたが「満州へは永住覚悟で家を出たはず」と実家には居場所はなく、島田市横井に仮住居を求めました。そして父は、島田市役所や静岡刑務所、その後、東海パルプに退職まで勤務しました。叔父によれば、母は引揚げ直後に初倉小学校で代用教員をしていたようです。

そして昭和22年に長男・武祢夫、25年に次男・恭史、29年に三男・克嘉が生まれ、男3人兄弟の親となりましたが、36年、母に腫瘍が見つかり、闘病生活が始まりました。静岡日赤病院などに入院し、何度か千術をしましたが、その度に痩せてしまい、骨と皮の痛ましい姿になりました。当時三男はいたずらっ子の小学5年生。旅立つ母の気がかりだったと思いますが、母は、昭和39年6月、43歳で島田市民病院にて亡くなりました。

私の母の思い出は、まだ動ける体で高校1年生の私を連れて、同郷である島田電話局長を訪ねたことがありました。その際の母と局長との楽しそうな弾んだ会話が今も脳裏に残っています。その2年後に私は電電公社に就職することになりましたが、何らかのご縁を感じずにはいられません。

厳しい父に叱られて家に入れてもらえない時、様子を見て必ず迎えに来てくれる母でした。父にはあまり好きなところがありませんでしたが、母には嫌いなところがありませんでした。そんな父ですが、55歳で定年退職後に、働きながら初歩から経理を学び始め、60歳で一級を合格し、税理士資格も間近となったり、求められて別会社に再就職して、10年以上勤務しました。

母とは絶対的な時間が不足し、父とは私の結婚後疎遠な年月が続き、あまりまともに話らしい話をしていませんでした。振り返ると、「不幸な時代であったが、精一杯生きた」父母たちは、尊敬できる私の先輩、と考えるに至りました。

父を語る

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿

父武次は、大正8年、島田市大柳にて半田伊七とたつの次男として生まれました。昭和13年から3年間、口中戦争へ参戦し、戦闘により大腿部に受弾。後半は諜報部に所属。除隊後、3年間新京中央林業学院で学び、営林局へ入局。任官試験に合格し、警備権を取得しました。

昭和19年、島田市に帰還し、隣家の小澤富美と結婚。国策によりそれぞれ満州に移住するものの、母とは別住まいで、新京(長春)で一軒家を借り、満州内の営林業務に付きました。

満州は広大で、眼に見えている建物に行くのに2~3日費やしたり、冬は見渡す限り全面凍結した河でスケートが楽しめました。また山間部の小川では立木を竿にして、lm級の魚を捕まえたり、山林を巡回中に虎と鉢合せしたり、ヤクザにドスを突き付けられ金品を要求された時は、拳銃で対抗し事なきを得たこともありました。スリリングな出来事が他にもいろいろとあったようです。

昭和20年、現地召集を受けて入隊。ソ連軍の侵入を防ぐため国境付近で「タコつぼ」を掘り待機、爆弾とともに戦車へ体当たりする任務でしたが、終戦により命拾いしました。ソ連軍による一斉検査が行われましたが、所持していた拳銃が発覚した仲間は銃殺、父は別位置に持っていたので、奇跡的に気付かれずに助かりました。その後軍用トラックでシベリアへ抑留される途中、とうもろこし畑で仲間と3人で脱走。激しい掃射を受けましたが3人とも逃亡に成功しました。以後の逃亡中に現地人に襲われ、拳銃所持の父以外の2人は殺されてしまいました。単独となった父は昼は隠れて休み、夜間暗闇に紛れて移動し、2週間ほど食事は水のみでした。その移動時に、足を紐で括って息絶えていた女性など、自死した日本人の亡骸をたくさん見ました。数ヶ月以トの逃亡生活を経て大連から船で佐世保に帰還できました。命運を左右した拳銃は、船上から海へ投げ捨てたそうです。

AboutTime取材

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
半田武祢夫と写真

AbouTime取材②

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
恵子さんを語る

AboutTime取材①

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
旅や諸々

島田市 島公民館横共同墓地 の墓所の精抜きお経

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
2022年9月12日(月)
島田市 島公民館横共同墓地の墓所の精抜きお経を行いました。
良い天気の中、洞善院のご住職がお経を詠んで下さりました。
その後お骨を取り出して大慶寺にお預けしました。

AboutTime 表紙

佐野雅基さんが2022年9月15日に投稿
半田武祢夫さんの自分誌 AboutTime

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