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想いで
高校時代から就職まで
団塊世代の先駆け、昭和22年生まれはとにかく人数が多く、県内でも高校が多く新設されました。昭和38年4月、県立島田工業高校電気科へ進学しました。入学時の校舎は1棟のみ完成の3階建てで、そこが学び舎でした。
その後段階的に第二棟、専門棟、体育館、武道館が建ち、卒業時にようやく全てが完成しました。運動場整備などは勤労奉仕で生徒も働きました。2年生になると、島田市民病院に入院していた母を、学校帰りに見舞うのが日課になりましたが、衰弱していく姿を見るのがつらくて、いつも早めに切り上げていました。その母が亡くなり、葬儀ではのぞき窓から焼かれる母を見つめていました。そして炉を離れ外に出て煙突を仰ぎ見ると、母を焼いた一筋の煙が、少しくねりながらゆっくりと天に昇っていきました。その年の秋には、新幹線と東京オリンピックを初体験しました。3年に進級すると、就職が課題となり、先生から電力会社、可鍛鉄製造会社などを紹介されましたが、気乗りしませんでした。6月に入り電電公社から求人があり「何となく印象が良い」というあやふやな気分でしたが、数人の同級生とともに適性検査を受けただけで、あっけなく就職が確定しました。
その後段階的に第二棟、専門棟、体育館、武道館が建ち、卒業時にようやく全てが完成しました。運動場整備などは勤労奉仕で生徒も働きました。2年生になると、島田市民病院に入院していた母を、学校帰りに見舞うのが日課になりましたが、衰弱していく姿を見るのがつらくて、いつも早めに切り上げていました。その母が亡くなり、葬儀ではのぞき窓から焼かれる母を見つめていました。そして炉を離れ外に出て煙突を仰ぎ見ると、母を焼いた一筋の煙が、少しくねりながらゆっくりと天に昇っていきました。その年の秋には、新幹線と東京オリンピックを初体験しました。3年に進級すると、就職が課題となり、先生から電力会社、可鍛鉄製造会社などを紹介されましたが、気乗りしませんでした。6月に入り電電公社から求人があり「何となく印象が良い」というあやふやな気分でしたが、数人の同級生とともに適性検査を受けただけで、あっけなく就職が確定しました。
小学校入学から中学時代
昭和29年4月、六合村の六合小学校に入学。その年の10月に五和村の五和小学校にに転校しました。小学4年生のとき、五和村は金谷町に吸収合併されました。その当時の先生が、社会科になると授業から少し外れて経験談が入った面白い話をしてくれたものでした。その話を聞くのが楽しみで、社会科も好きになり、得意科目にもなりました。特に地理は、現在の自分の知識を遥かに凌駕していました。その後も私が旅好きなのは、ここがルーツと思われます。昭和35年に五和中学校に入学。翌年2年生の時に母の病が見つかりました。それまで、母からは「高校は、藤枝の普通高校へ行き、その上へ進め」と言われていました。しかし、父からは「母に腫瘍ができていて、治療は困難だが、可能な限り手を尽くしたい。費用も掛かるので、進学は高校までにしてくれ」と伝えられて、実業高校へ進路変更しました。この後数年間は、炊事、洗濯をはじめ家事全般、またド肥処理まで兄弟で分担しました。