承継
軌跡

生い立ち

  • 岐阜県武儀郡小槌町(上有知町、現美濃市)で生まれる。父・吉水(吉見)は税務署員で、上有知町の税務署に勤めていた。一家は、近くの仏教寺院である教善寺の間借りをして暮らしていた。
  • 父は、千畝に京城医科大学(現ソウル大学医学部)に入学して医師になることを望んだ。しかし、千畝は医者になることを嫌がった。そこで、父の意に反して、1918年4月、早稲田大学高等師範学校英語科(現在の早稲田大学教育学部英文科)の予科に入学した。千畝は、ペンの先に小さなインク壺を紐でつけて耳にはさみ、学校に通っていたという逸話がある。その独特のペンの持ち方から「変わり者」(ドイツ語で「シュピナー」)と学友に笑われても、彼は平然と「これがあれば、どこでも書けるんだ。合理的だ」と平然と言う。しかし、実際には授業ではほとんどノートを取らず、講義内容はすべて暗記していた。父の意に反して進学したため、仕送りもない学生生活であった。

杉原はユダヤ人社会、世界のヒーローです

杉原はイスラエル政府から「ヤド・ヴァシェム賞」を授与された。彼の名前が世間に知られるようになると、賞賛とともに、日本政府の勅令に違反したことについて「お前は海賊だ、許さない」などの日本人の誹謗中傷の手紙も届くようになった。

ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンさん...「戦後日本の外務省はなぜ杉原のような外交官を表彰する代わりに追放したのか、なぜ彼の話は学校の教科書でモデルにされないのか(このような例は決して特殊なものではないにもかかわらず)、なぜ脚本家は彼についての本を書かないのか。)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマ化しないのか、なぜ新聞やテレビは取り上げないのか。
2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本国政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目、そして生誕100年という節目のことであった。