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本名:杉原 千畝(すぎはら ちうね)
墓地鎌倉霊園(マップ) 〒248-0001 神奈川県鎌倉市十二所512
※杉原千畝記念館
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第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して[1]大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる[2][3][4]。その避難民の多くがユダヤ人系であった[注釈 1]「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。

彼が残した「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」という言葉は、有名である。
1912年(明治45年)、名古屋古渡尋常小学校を全甲(現在の「オール5」)の優秀な成績で卒業[13]後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校、場所は現・名古屋市立瑞穂ヶ丘中学校)に入学[14]
1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで[18]登校していた逸話が残る。
1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中途退学し[注釈 7]、外務省の官費留学生となった。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす[注釈 8]
日本外交きっての「ロシア通」という評価を得て間もなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である[注釈 10]
関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったため、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった[39]

満洲時代の蓄えは離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡ったときと同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか記念写真一葉撮る金銭的余裕さえなかった[40]
1937年(昭和12年)にはヘルシンキ在フィンランド日本公使館に赴任する。
1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、リトアニアで生活を開始した。8月28日にカウナスに着任する。着任直後の9月1日にドイツがポーランド西部に侵攻し、第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵攻を開始する。10月10日、リトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。1940年6月15日、ソビエト軍がリトアニアに進駐する。
千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、当時のドイツのユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事(初代)[53]は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。
上掲の訓命では、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至であるため、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押した。ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである[56]
「命のビザ」
1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 20]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」[60]
杉原夫人が、難民たちの中にいた憔悴する子供の姿に目を留めたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ[注釈 21]という旧約聖書の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん[64]だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」[65]と同意。そこで千畝は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」[63]という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。
日本では神戸などの市当局が困っているためこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日[注釈 22]に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書[注釈 23]のなかで、千畝はビザ発給の理由を説明している。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わりぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む状態になり、さらに痛くなって動かなくなった腕を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った[70]。手を痛めた千畝を気遣い、千畝がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」ことダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた[注釈 25]

ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら、一か月あまり寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族とともに今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。千畝はビザに押すための領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内でビザの代わりになる渡航証明書を発行した[73]そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、千畝は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして列車と並んで泣きながら走っている人が、千畝たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていた.

          杉原千畝記念館

        杉原千畝記念館   岐阜県加茂郡八百津町八百津1071

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大切な方の思いで

生い立ち

  • 岐阜県武儀郡小槌町(上有知町、現美濃市)で生まれる。父・吉水(吉見)は税務署員で、上有知町の税務署に勤めていた。一家は、近くの仏教寺院である教善寺の間借りをして暮らしていた。
  • 父は、千畝に京城医科大学(現ソウル大学医学部)に入学して医師になることを望んだ。しかし、千畝は医者になることを嫌がった。そこで、父の意に反して、1918年4月、早稲田大学高等師範学校英語科(現在の早稲田大学教育学部英文科)の予科に入学した。千畝は、ペンの先に小さなインク壺を紐でつけて耳にはさみ、学校に通っていたという逸話がある。その独特のペンの持ち方から「変わり者」(ドイツ語で「シュピナー」)と学友に笑われても、彼は平然と「これがあれば、どこでも書けるんだ。合理的だ」と平然と言う。しかし、実際には授業ではほとんどノートを取らず、講義内容はすべて暗記していた。父の意に反して進学したため、仕送りもない学生生活であった。

杉原はユダヤ人社会、世界のヒーローです

杉原はイスラエル政府から「ヤド・ヴァシェム賞」を授与された。彼の名前が世間に知られるようになると、賞賛とともに、日本政府の勅令に違反したことについて「お前は海賊だ、許さない」などの日本人の誹謗中傷の手紙も届くようになった。

ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンさん...「戦後日本の外務省はなぜ杉原のような外交官を表彰する代わりに追放したのか、なぜ彼の話は学校の教科書でモデルにされないのか(このような例は決して特殊なものではないにもかかわらず)、なぜ脚本家は彼についての本を書かないのか。)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマ化しないのか、なぜ新聞やテレビは取り上げないのか。
2000年(平成12年)、当時の河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本国政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目、そして生誕100年という節目のことであった。
想いで

名言

㈱スマートシニアさんが2023年3月23日に投稿
  • 私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった
  • 正しいことをしよう。正しいのだから
  • 大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです
  • 一晩中、私は考えた。考えつくした。私のしたことは、外交官として間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。そして、それは人間として正しい行動だった。