承継
この追悼サイトは、 山口 洋子(作詞家)さまのために作成されました。

享年77歳 、誕生日 1937年5月10日、命日 2014年9月6日
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山口 洋子(やまぐち ようこ、1937年昭和12年〉5月10日 - 2014年平成26年〉9月6日)は、日本の著作家、作詞家1985年昭和60年)に直木三十五賞を受賞愛知県名古屋市出身。京都女子高校中退。なお、「誰もいない海」の作詞者・山口洋子は同姓同名の別人。

その後、東京・銀座でクラブ「姫」を開店。各界著名人を顧客として抱え、経営に手腕を発揮した。また、同店にはホステスとして、元ミス・ユニバース・ジャパン飯野矢住代、女優の山口火奈子、常連客だった俳優の梅宮辰夫と結婚したが半年で離婚して歌手となった大門節江らが在籍していた。1960年頃の銀座のクラブは妙齢のインテリホステスが主流だったが、山口は逆に「少々バカでも若くて美しい子を集める」方針を取り、それが他店で気兼ねしていた若い顧客を集める結果となった[3]

1967年(昭和42年)から友人で歌手の神楽坂浮子に提供した[注 1]「銀座化粧」を皮切りに作詞活動を開始。「噂の女」「よこはま・たそがれ」「ふるさと」「夜空」「うそ」「千曲川」「夢よもういちど」「雨の東京」「ブランデーグラス」「北の旅人」「アメリカ橋」などの多数のヒット作があり、特に1960年代後半から1970年代前半にかけて目覚ましい活躍をした。読売テレビの視聴者参加型歌番組『全日本歌謡選手権』で山口と同じく隔週でゲスト審査員として出演していた作曲家平尾昌晃とはゴールデンコンビとして知られた。

1968年9月30日から立川談志と組んでTBSテレビ『0スタジオ おんなのテレビ』の月曜日司会に抜擢される。途中から金曜日の司会も兼任したが視聴率は振るわず、ワンクールで番組は終了した。

1980年代からは小説の創作活動も始める。小説家としては「姫」の常連客でもあった近藤啓太郎に師事した[4]1985年(昭和60年)には『演歌の虫』、『老梅』で直木賞を受賞。併せて、遠藤実が設立した日本音楽作家協会会長に就任後は協会を通じ、松井由利夫冬樹かずみ等と後進の育成にも尽力した。

2014年9月6日、呼吸不全のため東京都内の病院で死去[5]。77歳没。没後に第56回日本レコード大賞・功労賞を受賞。

漫才師のハイヒールモモコは姪(兄の娘)。

西武ライオンズの大ファン。自ら「西武ライオンズ私設応援団長」を名乗り、1980年代後半から90年代にかけてのライオンズ黄金期には、優勝を決めたライオンズの選手を「姫」に迎えて朝まで祝勝会を行うのが恒例だった[4]。ただし本人は下戸であったため、酒は飲まずに炭酸水でごまかしながら酔ったふりをしていたという[4]

作詞[編集]小説[編集]
  • 『半ダースもの情事』(光文社 1981年、のち文庫)
  • 『女主人』(光文社 1983年、のち文庫)
  • 『プライベート・ライブ』(講談社 1983年、のち文庫) 1984年吉川英治文学賞新人賞受賞作品
  • 貢ぐ女 (1983年)第89回直木賞候補
  • 『椿の館』(実業之日本社 1984年、「老つばめ」文春文庫)
  • 『夜の底に生きる』(中央公論社 1984年、のち新潮文庫)
  • 弥次郎兵衛 (1984年)第91回直木賞候補
  • 『演歌の虫』(文藝春秋 1985年、のち文庫) 第93回直木賞受賞作品
  • 老梅 (1985年)第93回直木賞受賞作品
  • 『東京恋物語』(講談社 1985年、のち文庫)
  • 『ドント・ディスターブ』(講談社 1985年、のち文庫)
  • 『木と話す女』(文藝春秋 1986年、のち文庫)
  • 『東京の女』(新潮社 1986年、のち文庫)
  • 『男の極楽 千束圭太日記』(光文社 1986年、のち文庫)
  • 『銀座春灯』(文藝春秋 1987年、のち文庫)
  • 『シンシン』(文藝春秋 1994年、のち文庫)
  • 『月の音』(文藝春秋 1994年、のち文庫)
  • 『軽井沢冬夫人』(文藝春秋 1995年、のち文庫)
  • 『夜色』(新潮社 1997年)
  • 『飛行機』(光文社 1998年)
  • 『ひやりとする軽井沢』(文藝春秋 2002年)
            写真](17ページ目)「キレイな女は人殺しだって許される」銀座 ...
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このメッセージは、 2023年7月13日に、イーライフ株式会社宇崎勝(イーライフ)さんが投稿
数々のヒット曲を飛ばし、直木賞作家としても活躍した。
銀座のクラブ「姫」の経営者としても手腕を発揮したのは有名である。 合掌

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このメッセージは、 2023年7月13日に、イーライフ株式会社宇崎勝(イーライフ)さんが投稿
数々のヒット曲を飛ばし、直木賞作家としても活躍した。
銀座のクラブ「姫」の経営者としても手腕を発揮したのは有名である。 合掌
大切な方の思いで

(生い立ち)

料亭を経営していた資産家の父と、仲居をしていた母との間の私生児として生まれる[1]

16歳のときに高校を中退、ある男性の後ろ盾を得て名古屋市内で喫茶店「洋子」を開く[1]。店は繁盛していたというが、雇われ店長に嫌気が差して3年で経営から手を引いた[

(女優も経験)

1957年(昭和32年)、東映ニューフェイス4期生に選ばれる。同期には水木襄佐久間良子室田日出男曽根晴美花園ひろみ山城新伍がいた。しかし女優としては鳴かず飛ばずで、わずか2年ほどで芸能界から足を洗う[1]。この頃安藤昇と知り合い、横井英樹襲撃事件(1958年)に関与したとして安藤が警察に追われると、自らの住んでいたアパートに安藤を匿っていた[1]。本人も「安藤組の組員の末席をけがしている」と自認しており、アパートに出入りしていた安藤組の組員たちから「姫」と呼ばれるようになり、後のクラブの店名の由来にもなっている[2]