承継
この追悼サイトは、 やなせ たかし(漫画家、絵本作家) 「アンパンマンの原作者」さまのために作成されました。

享年94歳 、誕生日 1919年2月6日、命日 2013年10月13日
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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩〈読み同じ〉[1]、1919年〈大正8年〉2月6日[1] - 2013年〈平成25年〉10月13日)は、日本の漫画家・絵本作家・詩人[2]。有限会社やなせスタジオ[注釈 3]社長。高知県出身(後述)。妻は編集者の小松暢。

『アンパンマン』の原作者として知られる。社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(2000年5月 - 2012年6月)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(2012年6月 - 2013年10月)を歴任。

作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」[3]。壮年期までは「やなせ・たかし」と中黒が付された表記をされていた[4]。

絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなし、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた。

生涯
生い立ち
東京府北豊島郡滝野川町(現在の東京都北区)生まれ[2][注釈 4] 高知県在所村(現・香美市香北町)育ち。父方の実家は高知県香美郡在所村(現:高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家[6]。父親・柳瀬清は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵船に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。

父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身で上海に渡る。その後、一家は後を追い上海に移住。この地で弟・千尋が生まれたが、程なくアモイに転勤となった父親は再び単身赴任を選び、やなせらは東京に戻る。

1924年(大正13年)に父親がアモイで客死。遺された家族は父親の縁故を頼りに高知県高知市に移住する。弟は長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた長岡郡医師会長の伯父(父の兄)・寛に引き取られ、2年後に母親・登喜子が再婚したため[7]、やなせも弟と同じく伯父に引き取られて育てられる[8][9]。この伯父は趣味人でもあり、かなり影響を受けたという。また父親の実家にも足しげく通い、井伏鱒二や太宰治などの著書を読み漁った[10]。

戦争体験
東京高等工芸学校を1940年(昭和15年)に卒業後、田辺元三郎商店(後に東京田辺製薬[12]を経て、現:田辺ファーマ)宣伝部に就職[5]。しかし、1941年(昭和16年)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区の隷下部隊である西部第73部隊[注釈 5])へ入営。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となる。

漫画家への道
終戦後しばらくは戦友らとクズ拾いの会社で働いたが、絵への興味が再発して1946年(昭和21年)に高知新聞社に入社。『月刊高知』編集部[5]で編集の傍ら文章、漫画、表紙絵などを手掛けていたが、同僚の小松暢(こまつのぶ)が転職し上京するのを知り、自らも退職し上京した。

1947年(昭和22年)に上京し、その2年後に小松と結婚[7][15]。この時期、漫画家を志すようになるが、東京での生活がまだ確立されていなかったために、兼業漫画家という道を選ぶ。やなせは「とにかく貧乏は嫌だった」と述べている。上京した年に三越へ入社し[7]、宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める[5]。三越の社内報はもとより、新聞や雑誌でも作品を発表。当初は漫画家のグループ「独立漫画派」に入ったが、まもなく「漫画集団」に移った。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意し、1953年(昭和28年)3月に三越を退職して専業漫画家となる[16]。

三越時代、やなせは包装紙のデザインを猪熊弦一郎に依頼している。猪熊のデザインにやなせのレタリングで「mitsukoshi」のロゴが入れられた包装紙のデザインは、「華ひらく」の名で半世紀以上使われている[17]。

困ったときのやなせさん
1953年(昭和28年)に独立した後も精力的に漫画を発表していたものの、手塚治虫らが推し進めたストーリー漫画が人気になり、所属していた「漫画集団」が主戦場としていた「大人漫画」「ナンセンス漫画」のジャンル自体が過去の物と看做されるようになって、作品発表の場が徐々に減っていった。1964年(昭和39年)にNHKの『まんが学校』に講師として3年間レギュラー出演したり[5]、その翌年にまんがの入門書を執筆したりするなど、大人漫画・ナンセンス漫画の復興に取り組み、1967年(昭和42年)には4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞を受賞したものの[5]、1960年代後半はきつかったという。

漫画家としての仕事は激減したが、舞台美術制作や放送作家などその他の仕事のオファーは増え、生活的に困窮することはなかった。業界内では「困ったときのやなせさん」とも言われていたという。やなせは「そのころの僕を知っている人は、僕を漫画家だと全然思っていない人が結構いる[18]」と述べている。この時期には人間関係から作品が生まれてヒットするという現象が2度起きている。

詩人・絵本作家への道
1960年代半ば、漫画集団の展覧会に、まだ弱小企業だった頃の山梨シルクセンター(現:サンリオ)の社長辻信太郎が来場。やなせにグラフィックデザイナーとしての仕事を依頼したことから、サンリオとの交流を深める。当初は菓子のパッケージを手掛けていたが、1966年(昭和41年)9月に処女詩集『愛する歌』[5]を出版社から出そうとした際に、「それならうちで出してくれ」とサンリオが出版事業に乗り出した。『愛する歌』はサンリオの業績を押し上げるほどのヒットを記録したことから、サンリオの元で絵本の執筆を始める。1969年には短編メルヘン集『十二の真珠』で「アンパンマン」が初登場[19][20]。ただしこのアンパンマンは後のものとは異なり、ヒーロー物へのアンチテーゼ(アンチヒーロー)として作られた大人向けの作品である。

1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を創刊して、2003年まで編集長を務める一方で[7]、その前年には馬場のぼるらと「漫画家の絵本の会」を発足するなど[7][5][21]、詩人・絵本作家としての活動を本格化させる。1969年に発表していたアンパンマンを子供向けに改作し、フレーベル館の月刊絵本『キンダーおはなしえほん』の一冊「あんぱんまん」として発表[19][20]。同作は当初、評論家や保護者、教育関係者から批判された。元は大人向けに書いた作品だったが、次第に幼児層から人気を得るようになった。

名声と漫画の復興
330px-Kami_Kochi_Yanase_Takashi_Memorial_Hall_1.JPG?utm_source=ja.wikipedia.org&utm_campaign=parser&utm_content=thumbnail香美市立やなせたかし記念館アニメ『それいけ!アンパンマン』のヒットを受けて、1990年代以降は様々な賞を受賞。1996年(平成8年)7月には出身地の高知県香美市に香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が開館し、1998年(平成10年)8月には同記念館内に雑誌「詩とメルヘン」の表紙イラストやカットなどを収蔵した「詩とメルヘン絵本館」が開館するなど名声が高まった。官庁や地方自治体、公益事業や業界団体などのマスコットキャラクターのデザインを要請され、無償で引き受けることも多くなった。「詩とメルヘン」編集長時代も初期はほぼノーギャラで引き受けていた[注釈 7]。

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このメッセージは、 2026年10月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「アンパンマン」の原作者として知られる「やなせたかし」は、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家としても活躍し多彩な才能は業界内では、「困った時のやなせさん」と云われていました。   永遠の子供たちのヒーロー、アンパンマンをありがとう!    合掌

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このメッセージは、 2026年10月18日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「アンパンマン」の原作者として知られる「やなせたかし」は、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家としても活躍し多彩な才能は業界内では、「困った時のやなせさん」と云われていました。   永遠の子供たちのヒーロー、アンパンマンをありがとう!    合掌