承継
この追悼サイトは、 西岡 常一(国宝・法隆寺専属の宮大工)さまのために作成されました。

享年86歳 、誕生日 1908年9月4日、命日 1995年4月11日
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西岡 常一(にしおか つねかず、1908年明治41年)9月4日 - 1995年平成7年)4月11日)は、法隆寺専属の
宮大工
略歴
250px-Yakushiji_Nara03s3s4350.jpg薬師寺金堂250px-Yakushiji_Nara22n4592.jpg薬師寺玄奘奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西里出身。祖父西岡常吉、父西岡楢光はともに法隆寺の宮大工棟梁であった。

幼少期は、祖父に連れられ法隆寺管主の佐伯定胤に可愛がられ、「カステラや羊羹を定胤さんからようもろうたことを覚えています。」[1]などの記憶があるなど、棟梁になるべく早くから薫陶を受けていた。

斑鳩尋常高等小学校3年生から夏休みなどに現場で働かされた。「…そのころの法隆寺の境内では、西里の村の子供たちの絶好の遊び場で、休日にはよく『ベースボール』をして遊んだものだが、夏休みにみんなの遊んでいる姿が仕事場から見えたりすると、『なんで自分だけ大工をせんならんのやろ』と、うらめしく思ったこともある。」と述懐している[2]

1921年(大正10年)生駒農学校入学、父は工業学校に進学させるつもりであったが祖父の命令で農学校に入学することになった。一方在学中は祖父から道具の使い方を教えられるなど、大工としての技能も徹底的に仕込まれた

1924年(大正13年)卒業後は見習いとなる。1928年(昭和3年)大工として独立し、法隆寺修理工事に参加する1929年(昭和4年)1月から翌年7月まで舞鶴重砲兵大隊に入隊し衛生上等兵となる。除隊後の1932年(昭和7年)、法隆寺五重塔縮小模型作製を行うが、このときに設計技術を学ぶ。1934年(昭和9年)には法隆寺東院解体工事の地質鑑別の成果が認められ、法隆寺棟梁となる。

戦後は法隆寺の工事が中断され、「結婚のとき買うた羽織、衣装、とんびとか、靴とか服はみんな手放してしもうた。」と述懐する如く[3]、生活苦のため家財を売り払わざるをえなくなった。一時は靴の闇屋をしたり、栄養失調のために結核に感染して現場を離れるなど波乱含みの中で法隆寺解体修理を続けるが、その卓抜した力量や豊富な知識は、寺関係者のほか学術専門家にも認められ、1956年(昭和31年)法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。さらに1959年(昭和34年)には明王院五重塔1967年(昭和42年)から法輪寺三重塔1975年(昭和50年)落慶法要)、1970年(昭和45年)より薬師寺金堂、同西塔などの再建を棟梁として手掛ける。これらのプロジェクトにおいては、時として学者との間に激しい論争や対立があったが、西岡は一歩も引かず持論を通し、周囲から「法隆寺には鬼がおる。」と畏敬を込めて呼ばれていた

特に薬師寺金堂再建に関しては『プロジェクトX』(日本放送協会)で取り上げられて紹介されている。また途絶えていた「槍鉋(やりがんな)」などの道具の復活を行う

飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えるなど「最後の宮大工」と称された。文化財保存技術者、文化功労者斑鳩町名誉町民。実弟西岡楢二郎も宮大工として父や兄を支えた。また、西岡常一の唯一の内弟子が小川三夫である。

1995年(平成7年)、癌で死去。

人間関係
祖父との関係

祖父の薫陶

祖父の西岡常吉は、後継者たる男子に恵まれず(長男は19歳で夭折)、次女ツギの婿養子に二十四歳の松岡楢光を迎えて弟子に仕込んだ。やがて両者の間に長男が生まれると大いに喜び、自身の「常」の字をつけて「常一」と命名した。祖父としては普通に接し、菓子をすぐ与えたり、いたずらをしても厳しく注意することもないなど、非常に甘いところもあったが、常一が四歳のころから法隆寺の現場に連れて行って雰囲気に慣れさせ、小学校に上がると雑用をさせたが、その時の祖父は別人のように厳格になった。以降、祖父は婿の楢光と常一とを将来の棟梁として育成すべく尽力することになる。特に常一には徹底した英才教育を行い、常一自身にとって貴重な財産となっていくのである。

  • 見習いの時から祖父常吉に、厳しく仕込まれた。まず、大工としての基本である道具の研ぎ方をしこまれるが、常吉は一切教えず、常一は覚えるまで毎晩のように研ぎ続けた。後年常一は「頭でおぼえたものはすぐに忘れてしまう。身体におぼえこませようたんでしょう。」[4]と述懐し、その大事さは「手がおぼえるー大事なことです。教えなければ子供は必至で考えます。考える先に教えてしまうから身につかん。今の学校教育が忘れていることやないですか。」[5]と述べている。その他「…おじいさんが、ぴっちりと仕込んでくれたんです。とにかく厳しかったです。…口笛は吹いてはならんとか、半てんの帯はきちんと結べとか言いました。だらしないのはいかんのでしょうな。」[6]などの生活態度や、法隆寺は皇族を初めとする賓客が来るという理由から礼儀作法なども教えられた。それでも、外部からは祖父は温和になったと見え、祖父の弟子は「やっぱり孫にかかったらこわい親方も仏になった。」と言っていた[7]

口伝

祖父常吉は晩年、一人前となった父楢光と常一に西岡家に代々伝わる口伝を教えた。これは一度しか口移しで教えることができない秘中の教えで、一つずつその意味となる要点を教え、十日後に質問して一語一句違わず意味を理解するまで次に進まなかった。

  • 内容
    • 神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
    • 伽藍造営には四神相應の地を選べ。
    • 堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
    • 木は生育の方位のままに使へ。
    • 堂塔の木組は木の癖組。
    • 木の癖組は工人たちの心組。
    • 工人等の心根は匠長が工人への思やり。
    • 百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
    • 百論一つに止まるを正とや云う也。
    • 一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
    • 諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。
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このメッセージは、 2025年10月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
偉大な宮大工、西岡常一は卓抜した力量と豊富な知識で、で数々の文化財を遺しました。  永遠に引き継いで行きたいものです。  合掌

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このメッセージは、 2025年10月10日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
偉大な宮大工、西岡常一は卓抜した力量と豊富な知識で、で数々の文化財を遺しました。  永遠に引き継いで行きたいものです。  合掌