承継
この追悼サイトは、 徳田 虎雄(医療法人徳洲会元理事長)さまのために作成されました。

享年86歳 、誕生日 1938年2月17日、命日 2024年7月10日
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徳田 虎雄(とくだ とらお、1938年昭和13年〉2月17日 - 2024年令和6年〉7月10日)は、日本医師政治家鹿児島県徳之島町名誉町民。鹿児島県天城町名誉町民。モットーは「生か死か!」[1][2]

医療法人徳洲会創立者及び理事長、衆議院議員(4期)、沖縄開発政務次官、第7代日本体操協会会長、自由連合代表、特定医療法人沖縄徳洲会理事長、社会医療法人木下会理事長、医療法人静仁会理事長、埼玉医療生活協同組合理事長、札幌医療生活協同組合理事長、公益財団法人徳洲会国際奨学財団理事長、などを務めた。

日本の病院王と呼ばれながら国内に大規模な医療機関医療事業グループを次々と築いていき、衆議院議員としても政治に関わった2002年頃に筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を発症して政界から引退したが、病床から徳洲会グループ全般へ指示を続けた[3]

来歴・人物
生い立ち
「(医大に)合格するまでは生きて帰るな。死ぬんやったら、鉄道線路もあれば海もある」 (徳田 徳千代)[4]
兵庫県高砂市で生まれ、アメリカ占領時代の鹿児島県大島郡徳之島町出身[5][6]

幼い末弟が緊急医療を受けられず急病死したことを契機に医師を志した[6][7]大阪大学受験を目標として大阪へ単身移住し、鹿児島県立徳之島高等学校から大阪府立今宮高等学校へ転校して1学年下に編入した。実家の家計は苦しかったが、父の徳千代が先祖伝来の農地を切り売りで学資を捻出して仕送りしたという[8] 。なお徳田の自叙伝『 生命だけは平等だ 』を高校生の時に読んだ山中伸弥ノーベル生理学・医学賞受賞者)は、徳田の生き方や考え方に多大な感銘を受け、人を命を救う医師になることを決意したエピソードは有名である[9]

医師
「簡単なことですよ。病院の屋上から頭を下にして落ちればいいんやから」 [10]      2浪後、大阪大学医学部医学科[7]に合格。卒業後、大阪大学病院第二外科に入局した後、大阪府の公立病院勤務医として勤める[11]。  
1973年(昭和48年)自身が理想とする病院建設を志し、ニクソン・ショックを好機として銀行を「病院が失敗したら自殺して、その生命保険金で全額返す。」と説得[12][6][13]、大きな融資を得て自身初となる「徳田病院」を大阪府松原市に開院する。そして地域住民の評判を得て軌道に乗った徳田病院は、1975年(昭和50年)医療法人徳洲会を設立[14]。        徳田虎雄の「24時間、常に救急患者を受け入れる態勢」 「患者からの金品は一切受け取ってはいけない」 「負担を強いる入院保証金の廃止」 「(当時は当たり前だった)全病室の冷暖房費など一切無料」 生活格差による差額ベッドの廃止」 「入院治療費の猶予、また生活費の立替」[8][15]など徳洲会グループは、全ての患者が安心して入院治療が出来る病院を目指し、全国の病院で慣習化していた常識を打ち破る方針を次々と打ち出して、既得権益を保守したい日本の病院・医療関係者達に大きな動揺を与える。 
関東初進出であった茅ヶ崎徳洲会病院は、地元市民により病院誘致運動が行われ陳情書も提出されていたが、茅ヶ崎医師会は反対声明を出し、市との予防接種・休日診療契約を破棄、さらに徳洲会に融資を予定していた銀行から預金を引き上げるなど実力行使が行われた[16][17]。                                       そして日本医師会やその後ろ盾となる各地の地方自治体と対峙しながらも、大規模な病院や医療機関診療所を次々と開設していき、徳洲会グループは国内最大の病院・医療機関となっていく。                                      衆議院議員  徳州会で全国へ病院を展開しつつ、医療制度の改革に政治改革が必要と認識して政治家を志す。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)の衆議院総選挙に鹿児島県奄美群島選挙区から立候補し、保岡興治の前に落選[6]した。この選挙は選挙違反で逮捕者が続出するなど島を二分する激しい対決となり、「保徳戦争」と俗称された[6] 。       1990年(平成2年)衆議院総選挙に無所属で初当選し、自由連合を結成する[6]保守系無所属議員の寄り集まりであった。                           1993年(平成5年)の衆議院総選挙は、選挙直前に自民党へ入党して再選されるが、日本医師会の意向で3日[22]で追放された。                         1994年(平成6年)に自由連合を政党化し、代表として活躍。村山改造内閣で与党入りして沖縄開発政務次官を務めた1996年(平成8年)衆議院総選挙で落選したが、2000年(平成12年)衆議院総選挙で復活し、2003年平成15年)の衆議院総選挙で再選された。     ほかに日本体操協会会長、アジア体操連盟会長も歴任する[6]。 
病気療養2002年(平成14年)4月1日に筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の発病に気付いた。2004年(平成16年)2月ごろから病状が悪化して国会に出席できずに療養したが病名は公にしなかった。2005年(平成17年)8月8日の衆議院解散をうけ、体調回復が十分でないとして政界から引退すること発表した。
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         徳田虎雄顕彰記念館  鹿児島県大島郡徳之島町亀徳2691

注:このサイトは、徳田虎雄に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年10月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「医療界の革命児」と呼ばれながら、全ての患者が安心して入院治療ができる病院を目指し、全国の病院で慣習化していた常識を打ち破る方針を次々と打ち出して国内最大の病院・医療機関となっていった。
彼の国家的な功績は誠に大きく、再認識する必要が有ると思われます。  合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2025年10月4日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
「医療界の革命児」と呼ばれながら、全ての患者が安心して入院治療ができる病院を目指し、全国の病院で慣習化していた常識を打ち破る方針を次々と打ち出して国内最大の病院・医療機関となっていった。
彼の国家的な功績は誠に大きく、再認識する必要が有ると思われます。  合掌