この追悼サイトは、 トニー・ザイラー (オリンピック、アルペンスキーで初の三冠達成)さまのために作成されました。
享年73歳 、誕生日 1935年11月17日、命日 2009年8月24日
※ トニー・ザイラーさんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
アントン(トニー)・ザイラー(Anton("Toni") Sailer, 1935年11月17日[1] - 2009年8月24日[1][2])は、オーストリア・チロル州キッツビュール出身[1]のスキー選手・俳優。姉のロージ・ザイラー(ドイツ語版、英語版)もスポーツ選手であり1952年オスロオリンピックの回転に出場している(17位)。
満を持して臨んだ1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックにてアルペンスキー回転・大回転・滑降の金メダルを獲得し初の三冠を達成した[1][2](なお、この大会が兼ねていた世界選手権も2大会連続三冠王である)。この大会では、開会式においてオーストリア選手団の旗手を務めた。なお、このときの回転で、のち国際オリンピック委員会(IOC)副会長となる猪谷千春(日本)が銀メダルを手にしており(日本人初の冬季オリンピックメダリスト)、日本でも猪谷の報道にあわせてザイラーの名が知られるようになる。
1957年のオーストリア選手権では回転、大回転、アルペン複合の三冠に輝き、翌1958年自国で開催されたアルペンスキー世界選手権で滑降、大回転、アルペン複合と3個の金メダルを獲得。
しかしその爽やかな美男子ぶりを買われて、1957年に映画に出演したためにアマチュア資格を問われ、1960年スコーバレーオリンピックには出られないこととなり、1958年のシーズン後、22歳で引退を表明。
それから本格的に俳優に転向し、並行して歌手活動も行った[4]。日本の映画やCMにも出演したことがあり、1959年(昭和34年)には、11月25日から11月30日までの6日間にわたって東京で開催されたドイツ映画祭(俳優兼監督のベルンハルト・ヴィッキ、女優のリゼロッテ・プルファー、マルギット・ニュンケ達も出席。開会式の司会は俳優の三船敏郎が務めた)と日本映画『銀嶺の王者』(翌1960年公開)出演の為、同11月14日、午後5時10分東京国際空港(羽田空港)着のノースウエスト航空機で訪日。それから約5ヶ月間滞在し、1960年4月11日午後7時30分羽田空港発の航空機で離日。ほか、1957年、1972年(札幌オリンピック)、1974年、1979年、1998年の長野オリンピックでも訪日。
一方で1972年から1976年までオーストリアナショナルチームの監督を務め、アルペン最強国家としてのオーストリアの地位を確固たる物としている。また、非常に人望が厚く、国際大会でコーチ会議が紛糾したときに最終意見が求められることも多かった[5]。1985年にはIOCからオリンピック活動に対しオリンピック勲章(Olympic Order)が授与されている[2]。
また、各地のスキー場・スキーコース設計に携わった。設計したスキーコースは日本にもあり、シャトレーゼリゾート八ヶ岳(旧称・八ヶ岳ザイラーバレースキー場)や白山瀬女高原スキー場(石川県白山市)や安比高原スキー場(一部)がある。安比高原スキー場には、彼の名前にちなんで「ザイラーゲレンデ」というゲレンデがある[1]。CM出演としては、1980年代末にJR西日本のスキー列車「シュプール号」の事例がある。
また、2006年(平成18年)3月にも、長野県白馬村の白馬八方尾根スキー場で開催された第60回八方尾根リーゼンスラローム大会のゲストで訪日した。
チロル州・キッツビュールでスキー学校を経営していたが、2009年に脳腫瘍のため[1]インスブルックで死去[2]。73歳没。

この顕彰碑はトニー・ザイラー氏への追悼の意と蔵王温泉を広く世界に広めた功績、親交に対しての感謝を込めながら、「日本スキー発祥100周年」を迎える年に建立したものです。
トニー・ザイラーの紹介
オーストリア・チロル州キッツビュール出身のスキー選手。1956年の冬季オリンピックで初のアルペンスキー3冠王(滑走・大回転・回転)となり、1957年にもアルペン複合の3冠王、1958年にはアルペン複合と3個の金メダルを獲得しました。
22歳の若さで引退後は、俳優に転身し、映画「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」で主演を演じるなど、日本にも多くのファンをつくりました。
2009年8月24日、インスブルック市で惜しまれながら73年の生涯を閉じました。
注:このサイトは、トニー・ザイラーに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年73歳 、誕生日 1935年11月17日、命日 2009年8月24日
※ トニー・ザイラーさんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
アントン(トニー)・ザイラー(Anton("Toni") Sailer, 1935年11月17日[1] - 2009年8月24日[1][2])は、オーストリア・チロル州キッツビュール出身[1]のスキー選手・俳優。姉のロージ・ザイラー(ドイツ語版、英語版)もスポーツ選手であり1952年オスロオリンピックの回転に出場している(17位)。
来歴
2歳でスキーを始め、1947年からはキッツビュールスキークラブに所属。10代の頃から非凡な才能を発揮し[3]、1952年冬、16歳で国際大会で初めて優勝した。フランスのモルジヌでは滑降とアルペン複合、ムジェーヴ(w:en:Megève)では大回転とアルペン複合で優勝した。しかし練習中に足を骨折して1952/53シーズンを棒に振った。満を持して臨んだ1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックにてアルペンスキー回転・大回転・滑降の金メダルを獲得し初の三冠を達成した[1][2](なお、この大会が兼ねていた世界選手権も2大会連続三冠王である)。この大会では、開会式においてオーストリア選手団の旗手を務めた。なお、このときの回転で、のち国際オリンピック委員会(IOC)副会長となる猪谷千春(日本)が銀メダルを手にしており(日本人初の冬季オリンピックメダリスト)、日本でも猪谷の報道にあわせてザイラーの名が知られるようになる。
1957年のオーストリア選手権では回転、大回転、アルペン複合の三冠に輝き、翌1958年自国で開催されたアルペンスキー世界選手権で滑降、大回転、アルペン複合と3個の金メダルを獲得。
しかしその爽やかな美男子ぶりを買われて、1957年に映画に出演したためにアマチュア資格を問われ、1960年スコーバレーオリンピックには出られないこととなり、1958年のシーズン後、22歳で引退を表明。
それから本格的に俳優に転向し、並行して歌手活動も行った[4]。日本の映画やCMにも出演したことがあり、1959年(昭和34年)には、11月25日から11月30日までの6日間にわたって東京で開催されたドイツ映画祭(俳優兼監督のベルンハルト・ヴィッキ、女優のリゼロッテ・プルファー、マルギット・ニュンケ達も出席。開会式の司会は俳優の三船敏郎が務めた)と日本映画『銀嶺の王者』(翌1960年公開)出演の為、同11月14日、午後5時10分東京国際空港(羽田空港)着のノースウエスト航空機で訪日。それから約5ヶ月間滞在し、1960年4月11日午後7時30分羽田空港発の航空機で離日。ほか、1957年、1972年(札幌オリンピック)、1974年、1979年、1998年の長野オリンピックでも訪日。
一方で1972年から1976年までオーストリアナショナルチームの監督を務め、アルペン最強国家としてのオーストリアの地位を確固たる物としている。また、非常に人望が厚く、国際大会でコーチ会議が紛糾したときに最終意見が求められることも多かった[5]。1985年にはIOCからオリンピック活動に対しオリンピック勲章(Olympic Order)が授与されている[2]。
また、各地のスキー場・スキーコース設計に携わった。設計したスキーコースは日本にもあり、シャトレーゼリゾート八ヶ岳(旧称・八ヶ岳ザイラーバレースキー場)や白山瀬女高原スキー場(石川県白山市)や安比高原スキー場(一部)がある。安比高原スキー場には、彼の名前にちなんで「ザイラーゲレンデ」というゲレンデがある[1]。CM出演としては、1980年代末にJR西日本のスキー列車「シュプール号」の事例がある。
また、2006年(平成18年)3月にも、長野県白馬村の白馬八方尾根スキー場で開催された第60回八方尾根リーゼンスラローム大会のゲストで訪日した。
チロル州・キッツビュールでスキー学校を経営していたが、2009年に脳腫瘍のため[1]インスブルックで死去[2]。73歳没。
主な出演映画
(※日本公開作品のみ)- 『ザイラーの世界選手権 大回転』 Das Gesicht des Rennläufers
1958年オーストリア、バドガスタインで開かれた、世界スキー選手権大会の短篇記録映画。1959年12月19日、「ザイラーを囲む夕」で、『初恋物語』とともに特別試写[6][7]。その後、東京劇場で『ザイラーの初恋物語』と同時上映。 - 『ザイラーの初恋物語』 Ein Stück vom Himmel (1958年)
- 『スキーの王者』Gold auf silbernen Pisten (1958年)
1958年、アルペンスキー選手権のカラー記録映画。日本公開は1960年2月27日、日比谷映画。 - 『黒い稲妻』 Der Schwarze Blitz (1958年)
- 『白銀は招くよ!』 12 Mädchen und 1 Mann (1959年)
主演であり、主題歌は(原題「Ich bin der glücklichste Mensch auf der Welt」。邦題は同じく「白銀は招くよ」)が日本で大ヒットし、日本語の歌詞も作られ、日本の歌手達にも歌われた。また、「みんなのうた」(NHK)でも紹介されたり、「第22回NHK紅白歌合戦」では当時1972年札幌オリンピックを翌年に控え、有名なウィンターソングとしてダークダックスの出場曲にもなった。近年では「そう言えば あの時このうた」(NHK BS-2)でも放送された。今でも日本ではそのメロディーが広く知られている。 - 『銀嶺の王者』(1960年)
※日本映画。ドイツ語での題名は「Der König der silbernen Berge」。
松竹作品。共演は日本人とドイツ人のハーフでバイリンガルの女優・鰐淵晴子、東京大学出身の俳優・南原宏治、と言語面(ドイツ語)は万全を期して制作された。また、ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースの映画「東京画」「夢の涯てまでも」にも出演した笠智衆も出演している。 - 『白銀に躍る』 Kauf dir einen bunten Luftballon (1961年)
共演は女子フィギュアスケート選手のイナ・バウアー。ウィーン・アイス・レビュー団 (Wiener Eisrevue)総出演。ゲザ・フォン・ツィフラ監督の自作、Der weiße Traum (1943) のリメイク。主題歌「初恋の人」(Du sollst meine erste Liebe Sein)。 - 『空から星が降ってくる』 Ein Stern fällt vom Himmel (1961年)
共演は同じくイナ・バウアー。 - 『アイガー氷壁 決死の救援』 Sein bester Freund (1962年)
- 『アルプスの若大将』 (1966年) - ※日本映画
東宝作品。「若大将シリーズ」の1作。共演は加山雄三(俳優デビュー前にスキーで国体出場経験あり)

この顕彰碑はトニー・ザイラー氏への追悼の意と蔵王温泉を広く世界に広めた功績、親交に対しての感謝を込めながら、「日本スキー発祥100周年」を迎える年に建立したものです。
トニー・ザイラーの紹介
オーストリア・チロル州キッツビュール出身のスキー選手。1956年の冬季オリンピックで初のアルペンスキー3冠王(滑走・大回転・回転)となり、1957年にもアルペン複合の3冠王、1958年にはアルペン複合と3個の金メダルを獲得しました。
22歳の若さで引退後は、俳優に転身し、映画「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」で主演を演じるなど、日本にも多くのファンをつくりました。
2009年8月24日、インスブルック市で惜しまれながら73年の生涯を閉じました。
注:このサイトは、トニー・ザイラーに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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