承継
テレサ・テン1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本・タイ・マレーシアなども含めたアジアにおいて人気を博し、「アジアの歌姫」と呼ばれる。
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少女スターとして
220px-Teresa_Teng%27s_first_performance.png7歳 (1960年) 左から2番目10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする[1]。 16歳のとき、主演映画が製作され、女優デビューを果たす[1]。その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる[1]

日本進出と国外退去処分
1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テン人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」との契約を実現させる[1]

1974年、21歳のときに日本での歌手活動を開始する[1]。すでにアジアのスターであったテレサは、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」で日本デビューを果たすが、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本デビュー2作目の「空港」が大ヒットし、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る[1]

1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時日本は中華人民共和国を国家として承認し、中華民国とは国交を断絶していたため、中華民国のパスポートでは入国の際に煩雑な手続きが必要であった。そこでテレサは、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という[2]。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、偽造パスポートではなかった[2]。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレーな決着となり、1年間の国外退去処分となった

この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局はテレサの身柄の引き渡しを要求した。しかし、これに従えば数年間は歌手活動が出来なくなる、という考えから渡米する[1][2]事件から1年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許されたテレサは、中華民国国軍の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた[2]

同時に台湾での歌手活動も再開。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃アメリカでジャッキー・チェンと再会し思いを寄せるが、ジャッキーが取り巻きの前で侮辱行為をしたため破局。その後は友人関係となった。

中国本土・香港での人気拡大
1980年代初めには、中華人民共和国でもテレサのカセットテープのコピー品が出回っていた。特に人気だったのは、1930年代に中国で流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」(作詞:貝林 作曲劉雪庵)のカバーである。1983年には、香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、10万人を動員[1]。しかしその影響力を嫌った中国共産党政府は、1983年ごろにテレサの歌を放送禁止にした[1][2]。それでも人々は、ダビングしたカセットテープを聴いたり台湾の放送をキャッチしたりして、テレサの歌を密かに聴いていたという[1]。中華圏のCDショップでは、現在でも1982年から1984年ごろの香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。

日本再デビューと大ヒット
1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす

「つぐない」は有線放送を通じて徐々にヒット、日本有線大賞など多数の賞を受賞する[1]。翌1985年にリリースした「愛人」も再び荒木・三木コンビが手掛けてヒット。同曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。1986年には、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に2年連続出場する[1]。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚を売り上げた[3]、『時の流れに身をまかせ』は200万枚[4]

1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1985年12月には、NHKホールにて最後のソロコンサートが開催された。

中国民主化支援と挫折
250px-Teresa_Teng_NY.jpgニューヨークでのコンサートに出演するテレサ・テン(1980)1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり[1]同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた[5]

1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。

1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーバレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流した。しかしテレサの願いはかなわず、北京で天安門事件が発生。テレサの夢であった、両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった[1]。当時、その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている[1]

死去
250px-Teresa_Teng_game.jpgアメリカ合衆国のテレサ・テン(1980年代)同1989年、失意のなかアジアを離れて、フランスのパリに単身移り住む。中国への思いをさらに深め、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする[1]。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく[1]。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)であった。

1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし、搬送先のチェンマイラーム病院で死去した。苦しみのあまり部屋から出てきたテレサが倒れたところを、ホテルの従業員が発見し連絡。ラーム病院に救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分を要した。応対した医師によると、搬送時にはすでに心肺停止状態で、心臓マッサージや電気ショックによる蘇生が45分間行われたが、現地時間17時30分(台湾時間同18時30分、日本時間同19時30分)に死亡したという。42歳没。  
テレサ・テンのヒット曲 ランキング                            1 時の流れに身をまかせ
歌詞                                                                                                                                         2 つぐない
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              テレサ・テン / 熱唱!テレサ・テン 『東京夜景』 [LP - UPJY ...           20180701 忘れられない人・テレサ・テンさん | 忘却図書館
※注:このサイトは、テレサ・テンに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2025年2月27日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
上記の「テレサ・テンのヒット曲」の歌詞をクリックして、テレサの歌唱の素晴らしさを再確認してください。 歌に包み込まれそうな抱擁力あふれた魅力が、彼女の歌が国境を超えてヒットした根源でしょう❕  合掌
このメッセージは、 2025年2月22日に、藤澤哲雄さんが投稿
このサイトを見なければ思い出すことありませんでした。

テレサ・テンさんの歌は、喜びや悲しみ、希望や癒しに寄り添い、日本語なまりがとても心に深く刻み込まれました。永遠に輝き続ける心の宝物です。
心からの感謝を込めて、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
このメッセージは、 2025年2月22日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
国境を超えて今も多くのファンの胸に生き続けています。 テレサ・テンの魅惑の歌声は永遠に愛されて行くでしょう。    合掌

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このメッセージは、 2025年2月27日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
上記の「テレサ・テンのヒット曲」の歌詞をクリックして、テレサの歌唱の素晴らしさを再確認してください。 歌に包み込まれそうな抱擁力あふれた魅力が、彼女の歌が国境を超えてヒットした根源でしょう❕  合掌
このメッセージは、 2025年2月22日に、藤澤哲雄さんが投稿
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テレサ・テンさんの歌は、喜びや悲しみ、希望や癒しに寄り添い、日本語なまりがとても心に深く刻み込まれました。永遠に輝き続ける心の宝物です。
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国境を超えて今も多くのファンの胸に生き続けています。 テレサ・テンの魅惑の歌声は永遠に愛されて行くでしょう。    合掌
軌跡

(生い立ち)

父・鄧枢(てん・しゅう 1915年 - 1990年)は河北省大名県出身の中国国民党側の軍人。第二次世界大戦終結までは中国大陸に進出した日本軍とも戦っていた。母親は山東省出身。両親は国共内戦で敗れた中華民国政府とともに台湾に移った外省人の一組だった。兄三人と弟一人という男兄弟に囲まれて育った。父は戦前に日本軍と戦っていたこともありテレサの日本デビューに当初は反対したという。