この追悼サイトは、 仲代 達也(俳優・演出家、「俳優養成・無名塾」主宰者)さまのために作成されました。
享年92歳 、誕生日 1932年12月13日、命日 2025年11月8日
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仲代 達矢(なかだい たつや[7]、英︰Tatsuya Nakadai、男性、1932年〈昭和7年〉12月13日[7] - 2025年〈令和7年〉11月8日)は、日本の俳優・演出家・歌手・ナレーター・声優。劇団俳優座出身。無名塾主宰。愛称︰モヤ[8][9][注釈 1]。仕事所属。本名︰仲代 元久(なかだい もとひさ、Motohisa Nakadai)[8]。
東京都目黒区出身。身長178cm[2]、体重75kg、血液型はB型、星座はいて座[10]。
出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てで受賞しており、森雅之・山形勲と並び四冠を達成している。
同期生には宇津井健・佐藤慶[17]・佐藤允・中谷一郎ら[11]。なお、このうち佐藤允・仲代・中谷[注釈 2]の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連となった「喜八一家(ファミリー)」[注釈 3]。同期生の中では、新東宝に入社した宇津井とは仕事上接点がなくなってしまった[注釈 4]が、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く[18]、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
仲代はバーで働きながら役者修業に励んだが、困窮する生活は変わらなかった[12]。
1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、準劇団員扱いで俳優座に入団した[11]。同年9月の公演『幽霊』で、オスワル役に抜擢された[11]。この『幽霊』を見た月丘夢路が映画監督の井上梅次に進言[21]。井上から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年・日活)で月丘の相手役という大役を務め、映画でも本格デビューを果たし注目された[11]。
谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され[11]、千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・人斬りジョーの演技でも存在感を示す[11]。
1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家・脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚[11]。1958年、市川崑の『炎上』に出演[11]。
1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで六部で総上映時間が9時間31分に及ぶ『人間の條件』で主人公・梶役に起用される。この作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せると、小林からは「まさに天才。」とまで言われ[11]、その後も、『切腹』(第36回キネマ旬報賞男優賞、第13回ブルーリボン賞男優主演賞)などの小林作品の主演で起用され[11]、小林が監督を務めた、13作品に出演した。
東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として[11]、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶もあって「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞した[注釈 6][23]。『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)でも黒澤からオファーを受けたが、スケジュールが合わないとの理由で出演を断っていた[11]。しかし、黒澤から直に呼び出されて説得されたため[注釈 7]出演することにした。翌年の『椿三十郎』、1963年の『天国と地獄』でも起用された。
無名塾 仲代劇堂(東京都世田谷区岡本一丁目)
所属俳優・出身俳優には、映画・テレビドラマ・舞台で活躍している役所広司、益岡徹、若村麻由美、赤間麻里子、真木よう子、内浦純一、滝藤賢一、村上新悟、松崎謙二、高川裕也、声楽家でありミュージカルなどを中心に活動している佐賀龍彦、演出家として活躍している石栗昌彦がいる。

「果し合い」より
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享年92歳 、誕生日 1932年12月13日、命日 2025年11月8日
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仲代 達矢(なかだい たつや[7]、英︰Tatsuya Nakadai、男性、1932年〈昭和7年〉12月13日[7] - 2025年〈令和7年〉11月8日)は、日本の俳優・演出家・歌手・ナレーター・声優。劇団俳優座出身。無名塾主宰。愛称︰モヤ[8][9][注釈 1]。仕事所属。本名︰仲代 元久(なかだい もとひさ、Motohisa Nakadai)[8]。
東京都目黒区出身。身長178cm[2]、体重75kg、血液型はB型、星座はいて座[10]。
概要
劇団俳優座出身で演劇・映画・テレビドラマで活動を続け、映画全盛期から斜陽時代以降までの映画界を支えてきた代表的俳優である[11][12]。出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てで受賞しており、森雅之・山形勲と並び四冠を達成している。
俳優の道へ
1955年9月16日から28日にかけて俳優座劇場で上演された『幽霊』で仲代はオスワル役に抜擢された。左から秋好光果、東山千栄子、仲代。高校卒業後、俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け[11]、1952年(昭和27年)、俳優座養成所を受験して合格、養成所の第4期生として入所[15]。この時の受験料は、競馬場でアルバイトをしていた時に出会い、仲代に俳優となることを薦めた人物が出したという[16]。同期生には宇津井健・佐藤慶[17]・佐藤允・中谷一郎ら[11]。なお、このうち佐藤允・仲代・中谷[注釈 2]の3人は、後年岡本喜八監督作品の常連となった「喜八一家(ファミリー)」[注釈 3]。同期生の中では、新東宝に入社した宇津井とは仕事上接点がなくなってしまった[注釈 4]が、宇津井とは性格が違ったものの仲が良く[18]、映画『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
仲代はバーで働きながら役者修業に励んだが、困窮する生活は変わらなかった[12]。
映画デビュー
養成所時代に『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役を務めて映画デビュー[11]。養成所から仕出しで派遣された数秒間のエキストラ出演[注釈 5]、この作品で時代劇の歩き方ができなかった仲代は監督・黒澤明から「歩き方が変だ」と罵られ[20]、ワンカットに朝の9時から午後3時までの半日がかりの撮影となってしまい[20]、最終的に「いいや。OK」となった[20]。1955年(昭和30年)、養成所を卒業(前年既に初舞台)、準劇団員扱いで俳優座に入団した[11]。同年9月の公演『幽霊』で、オスワル役に抜擢された[11]。この『幽霊』を見た月丘夢路が映画監督の井上梅次に進言[21]。井上から依頼が舞い込み、映画『火の鳥』(1956年・日活)で月丘の相手役という大役を務め、映画でも本格デビューを果たし注目された[11]。
谷口千吉監督の映画『裸足の青春』では準主役で起用され[11]、千葉泰樹監督の『大番』、『黒い河』(1957年)における冷酷なヤクザ・人斬りジョーの演技でも存在感を示す[11]。
1957年(昭和32年)、俳優座所属の女優(まもなく演出家・脚本家に転身)・宮崎恭子と結婚[11]。1958年、市川崑の『炎上』に出演[11]。
主演俳優に
映画会社大手5社から、専属俳優にと望まれたが、舞台へのこだわりなどから、結局どの会社とも専属契約を締結せずフリーランスの道を歩み続けた[22]。この背景もあって、五社協定に縛られることなく映画出演の機会に恵まれた[22]。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで六部で総上映時間が9時間31分に及ぶ『人間の條件』で主人公・梶役に起用される。この作品で、仲代は監督の小林正樹も感服する演技を見せると、小林からは「まさに天才。」とまで言われ[11]、その後も、『切腹』(第36回キネマ旬報賞男優賞、第13回ブルーリボン賞男優主演賞)などの小林作品の主演で起用され[11]、小林が監督を務めた、13作品に出演した。
東宝では三船敏郎に対抗できる敵役俳優として[11]、『用心棒』(1961年)の監督・黒澤明から出演依頼を受ける。『七人の侍』出演時に黒澤から散々NGを出された記憶もあって「立派な役者になって、二度と黒澤組には出ない」と心に決めていた仲代は当初出演をきっぱりと固辞した[注釈 6][23]。『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)でも黒澤からオファーを受けたが、スケジュールが合わないとの理由で出演を断っていた[11]。しかし、黒澤から直に呼び出されて説得されたため[注釈 7]出演することにした。翌年の『椿三十郎』、1963年の『天国と地獄』でも起用された。
無名塾の創立
→「無名塾」も参照
俳優座の看板俳優だった1975年(昭和50年)に、妻・宮崎恭子と共に無名塾を創立して後進の養成を開始した。1979年(昭和54年)には、俳優として縛られず活動したいとの理由で[11]、俳優座を退団[11]。以後は無名塾公演で、脚本・演出を妻に任せ、自分が出演する形で演劇を継続してきた。俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演した。所属俳優・出身俳優には、映画・テレビドラマ・舞台で活躍している役所広司、益岡徹、若村麻由美、赤間麻里子、真木よう子、内浦純一、滝藤賢一、村上新悟、松崎謙二、高川裕也、声楽家でありミュージカルなどを中心に活動している佐賀龍彦、演出家として活躍している石栗昌彦がいる。
著書
- 『役者 MEMO 1955-1980』 講談社、1980年/小池書院「道草文庫」、1997年
- 『遺し書き 仲代達矢自伝』 主婦と生活社、2001年/中公文庫、2010年。改訂版
- 『老化も進化』 講談社+α新書、2009年。聞き書
- 『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』 聞き手 春日太一、PHP新書、2013年/文春文庫、2017年。改訂版
- 『未完。』 KADOKAWA(角川書店)、2014年
- 『役者なんかおやめなさい』 聞き手 坂梨直子、サンポスト、2017年副題は84歳、日本を代表する名優が語る、60年余の舞台人生
- 『からだひとつ:ここまで来たからもう一歩』 ハルメク、2018年[82]。エッセイ集
- 『演じることは、生きること:人生の舞台で紡いだ言葉』 PHP研究所、2018年

「果し合い」より
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