承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 中村 泰士(奈良が生んだ作曲家・作詞家)さんを記念して作成されました。

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本名:中村 泰士(なかむら たいじ)
奈良県北葛城郡王寺町出身。本名は泰士と書いて「たいし」と読む(芸名の読みを「やすし」としていたこともある)。クリスチャンの家に、長兄と12歳も離れた5人兄弟の末っ子として生まれる。6歳の時に歯科医師の父が亡くなり、役場に勤める母に女手一つで育てられた[1]

中学生の時、クラブ活動ブラスバンド部に入り、トロンボーン担当となる。行進曲のリズムを刻み続けることにつまらなさを感じ、部室にあったジャズの譜面のメロディーをトロンボーンで吹いていた[1]

進学した奈良県立高田高等学校にブラスバンド部がなかったため、担任教諭に頼み部を創ってもらったが、2年生の時にエルビス・プレスリーニール・セダカらのロックンロール音楽に出会い、大阪市難波神戸市三宮ジャズ喫茶へ通うようになった。
18歳で、内田裕也佐川満男のバンド「ブルージーン・バップス」にボーカリストとして加入。「美川鯛二」の芸名で芸能界にデビューした1995年に第14回奈良県知事選挙に立候補、約9万票を集めたが2位で落選。その後、1996年には第41回衆議院議員総選挙自由連合公認で大阪3区から立候補したが、4人中最下位で落選している。
18歳で、内田裕也佐川満男のバンド「ブルージーン・バップス」にボーカリストとして加入。「美川鯛二」の芸名で芸能界にデビューした。1995年に第14回奈良県知事選挙に立候補、約9万票を集めたが2位で落選。その後、1996年には第41回衆議院議員総選挙自由連合公認で大阪3区から立候補したが、4人中最下位で落選している。

代表曲(作曲)
   〇 夢は夜ひらく(作詞・補曲)   園まり
   〇 今は幸せかい          佐川満男
   〇 喧嘩のあとで口づけを      いしだあゆみ
   〇 砂漠のような東京で       いしだあゆみ
   〇 愛は傷つきやすく        ヒデとロザンナ
   〇 大阪の女            ザ・ピーナッツ
   〇 喝采   ※第14回(1972)レコード大賞受賞曲    ちあきなおみ
   〇 黄色い麦わら帽子        松崎しげる
   〇 夜間飛行            ちあきなおみ
   〇 天使を夢みる          桜田淳子 <デビュー曲>
   〇 わたしの青い鳥         桜田淳子
   〇 心のこり ※第17回(1975)レコード大賞 最優秀新人賞受賞曲
                     細川たかし <デビュー曲>
   〇 北酒場  ※第24回(1982)レコード大賞受賞曲    細川たかし
   〇 そして・・めぐり逢い      五木ひろし            etc.

作詞 500曲を超える関連歌詞あり

出演[編集]ラジオ[編集]CM[編集]テレビドラマ[編集]以下は全てTBSテレビ

バラエティー[編集]           中村泰士
  2017年4月9日 大阪城ホールにて「カラオケレインボー 1万人の歌謡曲」を開催

  • ※注:このサイトは、中村泰士に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝




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大切な方の思いで

(少年時代)

歯科医だった父親は6歳のときに他界し、母が町役場で働きながら6人の子供を育てた。

ニール・セダカやエルビス・プレスリーなどの音楽にのめり込んだ結果、高校を2年で中退する。

(作曲家・作詞家への歩み)

1957年に美川鯛二として歌手デビューするも売れず、必要に駆られて作詞、作曲を始めた。

作曲家として次々とヒットを飛ばしたが、うつ病を発症して闘病中にサザンオールスターズの「いとしのエリー」を聴いて、こんな曲は自分には書けないとさらに落ち込んだ。

暗い曲しか書けないだろうと、どんどこの状態で書いたのが梓みちよの「小心者」だった。

(スター誕生から、1万人の歌謡曲まで)

スター誕生の番組で、他の審査員の評価は低い中、中森明菜(当時15歳)さんのリズムの揺れと、気持ちの揺れを会得したということは凄い楽しみだと思いますと明菜さんを励まし高得点を付けて予選を通過して、決勝大会に進みました。
その後、中森明菜さんはスターへの階段を駆け上がったのは周知のとおりです。

2017年4月9日 大阪城ホールにて「カラオケレインボー1万人の歌謡曲」を主催し、出演歌手全員と観客もいっしょに1万人合唱イベントを行った。
大阪城ホールが割れんばかりに盛り上がる中で、「大阪を歌謡の聖地に」と情熱を込めて宣言された姿が今も瞼に焼き付いています。