承継
倅のこと
倅の友人の方が発起して追憶記とでも申しましょうか、 出してやろうとの温かい企画に親として言葉にならぬ感謝の気持ちで一杯です。 そして一文を寄せろとのおすすめもありますので少し書かせていただきます。
彼は昭和10年8月22日旭川市旭町で鉗子分娩によって出生いたしました。 昭和16 年3月滝川に戻り人石社宅から第一小、 江陵中、 滝川西高(滝川工業の前身)を卒業、 成績はどうでしたろう中以上であったと思います。
私は19年6月に補充兵として応召したので留守中の彼の行動はよく判りませんが、 応召直後二男が疫痢で急死、 妹が病気で通院、 三女が出産など母親の手助けになるのは彼一人の状態で炊事のはてまでしなければならぬ、 一人男として小各いながら頑張ってくれたと思います。 私は朝出勤して夕方帰宅するという給料とりの生活とは異なり、 時間的にルーズな勤務についていたので子供の勉強その他母親委せでありました。 従って辰郎の進学についてもその通りで母親と相談をして受験に向った次第でした。ある日角帽をかふって悠々と帰宅してきました。 よく見ると日大の正帽です。 私はその帽子をとりあげて屑籠の中に投げ入れ日大などにはやらないと宣言したのです。 考えれば乱暴な親でした。 やむなく一浪です。 予備校通いで一年経って二年目の受験となりましたが医科系ばかりに願書を出したようです。 最初の学校で身体検査を受けたのでしょう。 「色弱」と云うことで不合格です。 本人はガッカリです。 他の大学の受験はやめたと云いだして棄権してしまいました。親としては大問題です。 打ち明ければ親馬鹿と笑われると思いますが前年合格した日大に秘かに休学の手続ぎをとっておいたのです。 母親にも相談して 「色弱」で理科系か駄目なら文化系にやらなければならぬが将来と本人の努力によるのだから日大でもよいじゃないかとの結論に達して実はカクカクシカジカであるから日大に入学しなさいとのことで日大通学となった次第です。
東京の北海道大学生寮に御世話になることとしました。 まずは結構なことで酒も煙草も覚えてくれましたし質屋通いも習得したようでした。 彼が大人になって卒業する年親父の方でも一大変化かまいりました。 道議に当選しました。 工事の発注者と受注者と契約締結の場合議員であれば違法であるとのことで道工事の受注者神部組の社長であることは問題であるわけで退職せねばならぬと考えたのです。 その後任者に学校出たての辰郎を社長にしました。 会社の成績はさることながら永年勤務者の中に若輩ものが入ったのです。 社長職に潰されるような苦しいこともままあったと思います。 しかし、 難局に直面したこともあったらしいが切り抜けて30年、 会社もどうやらそれらしくなりましたしこれからだと云う時であったと思います。彼かそれなりにやれたと云うことは会社内ではよい社員にめぐまれたことは勿論ですが友達に素晴らしい友を得たことによると思います。彼の心にはヨシやるぞとの気持ちに燃えていたと察していました。
しかし不幸はひそかにしのびよっていたのです。
58年3月歩くスキー大会に参加中第一回の発作(心筋梗塞)があり爾来3年余り闘病生活を続けました。本人は早く健康体になりたい気持ちから日本で名高い東京女子医大に伝手を求めて検診を受け、すすめられて「バルン」と云う治療を受けたところ初回は成功しましたか二回目にミスがあり急遠開胸しての大手術をするにいたり、その場は一命をとり とめましたが、そのミスかもとで胸水がたまる余病を併発するなど遂に回復を見ず、帰らぬ人となりました。そのような運命をもって生まれた子供とは思いますが親の愚痴と云われましょうが東京女子医大の「ミス」が残念でなりません。
ただただ感謝に堪えないのは東京に入院中、同期の友人の方がはとんど毎日お見舞いに来て下さり食物の心配までしていただき又、北海道からはるばる東京まで見舞いにかけつ けて下さった友人の方々、本人はどんなにか勇気づけられたことか、本当にありかとうございました。
あの素晴らしい友人知人の方々と過ごした50年、そして承けた御厚意は70~80オの高齢を保った人々と同じか、それ以上の充実した50年であったでしょう。
只々心から感謝の念で一杯であります。
御存知のような家族をのこしてゆきました。
これからも温かい御厚誼をお願い申し上げます。
                              父:神部 俊郎 より 

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