この追悼サイトは、 松寿院・女の殿様 種子島領主(種子島久道の正室)さまのために作成されました。
享年68歳 、誕生日 1797年4月14日、命日 1865年10月9日
※ 松寿院・女の殿様さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
松寿院(しょうじゅいん、寛政9年3月18日(1797年4月14日) - 慶応元年8月20日(1865年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の女性。種子島領主・種子島久道の正室。父は薩摩藩主・島津斉宣。母は側室(家臣・島津仲久隣の娘)。兄に島津斉興、弟に島津忠公、妹に随姫(佐土原藩主・島津忠徹室)、郁姫(近衛忠煕室)らがいる。実名は「隣姫」「於隣」。別名「御隣の方」。夫の死後、落飾して「松寿院」と号した。
最初の4人の子は夭折しており、その後、子を授かり身重の状態で初めて種子島に渡った[1]。
文政元年、兄の島津斉興は種子島家の家老達の反対を押し切り、子・忠教を養子として久道・隣姫夫妻に押し付けるも、文政8年にその養子縁組を斉興が突如撤回するなど島津家の内紛に翻弄される。夫の久道も文政12年(1829年)に死去[1]。隣姫と久道には後継がいないため、室町時代より種子島を治めた種子島家は事実上断絶。それにより男子後継者を欠いた種子島氏は取りつぶしの危機に陥る。
隣姫は早急に養嗣子の要請を実家・島津家に行うと共に、実家からの指示で久道の名跡となって種子島を治める事となった(久道の死から15年間は隣姫が種子島領主となり、領民を治めた)。
久道の死から15年後の天保13年(1842年)にようやく島津家より養子・久珍(島津斉宣12男)を迎えるも、久珍は嘉永5年(1852年)に死去。久珍の子・久尚はまだ幼かったため、ふたたび松寿院が久尚の後見という形で種子島を治める事となった。
松寿院は多くの事業を手掛け、大浦川の改修工事、塩田開発、島の玄関である西之表港の防波堤整備は三大事業と呼ばれている[1]。このほか種子島家累代の墓所整備、慶長の役や藩に仕えて亡くなった無名の人々の供養、学問所の建築や学用品の授与など領民の生活を守るために奔走した。
松寿院が大浦荒地に創設した塩田創業は種子島に大いなる利益をもたらし、第二次世界大戦後まで続いた。他にも19代当主・種子島久基が始めた「かんしょ栽培」の功績を称える神社の建立なども行っている。
鹿児島城(鶴丸城)での松寿院の立場はとても高く、嘉永4年(1851年)に島津斉彬が藩主となった祝賀では斉彬が最初に対面した3人に松寿院が含まれている[1]。また、天璋院(篤姫)が将軍家に輿入れする際には天璋院の世話をしている[1]。
慶応元年(1865年)8月20日に久尚とその家族に見守られながら種子島で死去。享年69。
墓地は種子島家の菩提寺である本源寺にある
【種子島家の女偉人伝:種子島の女殿様といわれた松寿院(天璋院篤姫の伯母)】
注:このサイトは、松寿院に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
享年68歳 、誕生日 1797年4月14日、命日 1865年10月9日
※ 松寿院・女の殿様さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
松寿院(しょうじゅいん、寛政9年3月18日(1797年4月14日) - 慶応元年8月20日(1865年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の女性。種子島領主・種子島久道の正室。父は薩摩藩主・島津斉宣。母は側室(家臣・島津仲久隣の娘)。兄に島津斉興、弟に島津忠公、妹に随姫(佐土原藩主・島津忠徹室)、郁姫(近衛忠煕室)らがいる。実名は「隣姫」「於隣」。別名「御隣の方」。夫の死後、落飾して「松寿院」と号した。
生涯
寛政9年(1797年)3月18日に島津斉宣の次女として誕生した。名は於隣(おちか)[1]。誕生早々より、種子島領主の種子島家との婚儀が進められ、同年6月6日種子島久道の正室となる。生後3か月での輿入れだったが、種子島に移住したわけではなく、鹿児島の種子島家の屋敷で育った[1][2]。最初の4人の子は夭折しており、その後、子を授かり身重の状態で初めて種子島に渡った[1]。
文政元年、兄の島津斉興は種子島家の家老達の反対を押し切り、子・忠教を養子として久道・隣姫夫妻に押し付けるも、文政8年にその養子縁組を斉興が突如撤回するなど島津家の内紛に翻弄される。夫の久道も文政12年(1829年)に死去[1]。隣姫と久道には後継がいないため、室町時代より種子島を治めた種子島家は事実上断絶。それにより男子後継者を欠いた種子島氏は取りつぶしの危機に陥る。
隣姫は早急に養嗣子の要請を実家・島津家に行うと共に、実家からの指示で久道の名跡となって種子島を治める事となった(久道の死から15年間は隣姫が種子島領主となり、領民を治めた)。
久道の死から15年後の天保13年(1842年)にようやく島津家より養子・久珍(島津斉宣12男)を迎えるも、久珍は嘉永5年(1852年)に死去。久珍の子・久尚はまだ幼かったため、ふたたび松寿院が久尚の後見という形で種子島を治める事となった。
松寿院は多くの事業を手掛け、大浦川の改修工事、塩田開発、島の玄関である西之表港の防波堤整備は三大事業と呼ばれている[1]。このほか種子島家累代の墓所整備、慶長の役や藩に仕えて亡くなった無名の人々の供養、学問所の建築や学用品の授与など領民の生活を守るために奔走した。
松寿院が大浦荒地に創設した塩田創業は種子島に大いなる利益をもたらし、第二次世界大戦後まで続いた。他にも19代当主・種子島久基が始めた「かんしょ栽培」の功績を称える神社の建立なども行っている。
鹿児島城(鶴丸城)での松寿院の立場はとても高く、嘉永4年(1851年)に島津斉彬が藩主となった祝賀では斉彬が最初に対面した3人に松寿院が含まれている[1]。また、天璋院(篤姫)が将軍家に輿入れする際には天璋院の世話をしている[1]。
慶応元年(1865年)8月20日に久尚とその家族に見守られながら種子島で死去。享年69。
墓地は種子島家の菩提寺である本源寺にある
- 種子島の女殿様だった松寿院...
松寿院は、第23代島主種子島久道夫人で、島津斉宣(26代島津藩主)の二女、島津斉彬(25代島津藩主)の叔母にあたります。また、NHK大河ドラマで放映されていた篤姫の伯母にあたります。松寿院は、寛政九年(1797年)三月十八日、鹿児島で生まれ隣(ちか)と名づけられ、生後まもなく種子島家にこしいれされています。
その後文化八年(1811年)第23代島主となる種子島久道と結婚しますが、夫が亡くなり三十二歳で未亡人になります。子供も三人いましたが、すべて早死にしてしまい後継ぎがいなくなり、島津家の藩命により家政担当の立場におかれていきます。そして、慶応元年(1865年)八月二十日、六十八歳の生涯を終えるまで、ただひたすら島民のために尽していきます。
南種子町平山の大浦塩田の開発、大浦川の川工事、西之表港の波止工事は、松寿院の三大事業とも言われています。そのほか、甘藷栽培の推進、製糖事業、種子島家歴代墓地の整理、栖林神社の創建、熊野神社への信仰も厚く、熊野権現擁護寺、松濤庵の建立、油久村の御新田も松寿院の意思で作られ、その功績は多大なものでした。まさに種子島の女殿様だったのです。
その後文化八年(1811年)第23代島主となる種子島久道と結婚しますが、夫が亡くなり三十二歳で未亡人になります。子供も三人いましたが、すべて早死にしてしまい後継ぎがいなくなり、島津家の藩命により家政担当の立場におかれていきます。そして、慶応元年(1865年)八月二十日、六十八歳の生涯を終えるまで、ただひたすら島民のために尽していきます。
南種子町平山の大浦塩田の開発、大浦川の川工事、西之表港の波止工事は、松寿院の三大事業とも言われています。そのほか、甘藷栽培の推進、製糖事業、種子島家歴代墓地の整理、栖林神社の創建、熊野神社への信仰も厚く、熊野権現擁護寺、松濤庵の建立、油久村の御新田も松寿院の意思で作られ、その功績は多大なものでした。まさに種子島の女殿様だったのです。
松寿院画像西之表港新波止(沖の岩岐)
【撮影場所】***
【アクセス時間】***
【撮影日】2008年2月3日
【説明】現在残っている松寿院の画像です。中種子町立歴史民族資料館、種子島開発総合センターで松寿院コーナーがあります。【撮影場所】西之表市榕城西町
【アクセス時間】市街地より約3分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、西之表港の波止工事です。写真の場所は、旧西之表港の沖にある岩岐です。昭和になって新港の工事が始まりますが、その基礎になっています。石組みが現在でも確認できます。西之表港旧波止(築島)大浦川川直しの碑
【撮影場所】西之表市榕城西町
【アクセス時間】市街地より約3分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】旧波止の築島で、昔、この港から鹿児島、馬毛島への定期便が出ていました。昭和になって築港工事があり、その記念碑が中央にあります。【撮影場所】南種子町平山北小浦上
【アクセス時間】国道58号、県道75号線経由で約20分
【撮影日】2008年7月3日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、大浦川の河川改修工事です。安政六年(1859年)、大きく迂回して流れる大浦川の流れを真直ぐにして、水の滞留をなくし潮害を防いだ工事です。写真左に川があります。大浦塩田跡地松寿院墓地
【撮影場所】南種子町平山浜田
【アクセス時間】国道58号、県道75号線経由で約20分
【撮影日】2008年2月28日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、大浦川沿いで、塩田を開発したところです。安政四年(1857年)に製塩を始めています。終戦後、昭和二十七、八年ごろ採算が取れなくて中止されています。ところで、写真の塩田跡は、昭和九年に完成したものといわれています。【撮影場所】西之表市榕城中目
【アクセス時間】市街地より徒歩で約2分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】種子島家御拝塔墓地にある松寿院のお墓です。中央付近にあり大変立派なお墓です。案内板があります。
なお、YouTubeでのアドレスとタイトルは次の通りです。

【アクセス時間】***
【撮影日】2008年2月3日
【説明】現在残っている松寿院の画像です。中種子町立歴史民族資料館、種子島開発総合センターで松寿院コーナーがあります。【撮影場所】西之表市榕城西町
【アクセス時間】市街地より約3分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、西之表港の波止工事です。写真の場所は、旧西之表港の沖にある岩岐です。昭和になって新港の工事が始まりますが、その基礎になっています。石組みが現在でも確認できます。西之表港旧波止(築島)大浦川川直しの碑


【アクセス時間】市街地より約3分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】旧波止の築島で、昔、この港から鹿児島、馬毛島への定期便が出ていました。昭和になって築港工事があり、その記念碑が中央にあります。【撮影場所】南種子町平山北小浦上
【アクセス時間】国道58号、県道75号線経由で約20分
【撮影日】2008年7月3日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、大浦川の河川改修工事です。安政六年(1859年)、大きく迂回して流れる大浦川の流れを真直ぐにして、水の滞留をなくし潮害を防いだ工事です。写真左に川があります。大浦塩田跡地松寿院墓地


【アクセス時間】国道58号、県道75号線経由で約20分
【撮影日】2008年2月28日
【説明】松寿院の主な事業の一つで、大浦川沿いで、塩田を開発したところです。安政四年(1857年)に製塩を始めています。終戦後、昭和二十七、八年ごろ採算が取れなくて中止されています。ところで、写真の塩田跡は、昭和九年に完成したものといわれています。【撮影場所】西之表市榕城中目
【アクセス時間】市街地より徒歩で約2分
【撮影日】2008年2月24日
【説明】種子島家御拝塔墓地にある松寿院のお墓です。中央付近にあり大変立派なお墓です。案内板があります。
【種子島家の女偉人伝:種子島の女殿様といわれた松寿院(天璋院篤姫の伯母)】
注:このサイトは、松寿院に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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