承継
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本名:司馬遼太郎(しば りょうたろう)
墓地第二無量寿堂(マップ)〒605-0846 京都府京都市東山区五条橋東6丁目514
※司馬遼太郎記念館の情報はページ最後にあります。


大阪府大阪市生まれ。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆紀行文などでも活発な文明批評を行った。
年表[編集]作品[編集]長編小説[編集]   (c)公益財団法人大阪観光局
        司馬遼太郎記念館   東大阪市下小阪3-11-18

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大切な方の思いで

生い立ち

  • 福田は薬剤師の次男として大阪で生まれた。兄は2歳の時に亡くなっている。姉と妹が1人ずついた。乳児脚気のため、3歳まで奈良の母方の実家に預けられる。1930年、大阪市立難波塩草小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学する。性格は明るかったが、学校は嫌いで、悪ガキでもあった。母の実家の周辺には古墳が多く、土器の破片や石の矢じりなどをよく集めていた。また、当時の少年たちにとって特別な存在ではなかったが、大陸の馬賊に憧れていた。この夢は、後に戦車隊の小隊長になることで実現する。
  • 愛称は "大阪ひろし"。幼少期は大阪・難波に住んでいた。奈良県當麻の母の実家に里子として送られた。古今東西のあらゆる分野の本を読み、釣りや将棋の本まで読んでいた。


学生時代

旧制大阪高等学校を受験するも不合格。翌年、旧制弘前高校を受験するも不合格となる。1942年4月、旧制大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部モンゴル語学科)に入学した。入学時に上級生(木刀や竹刀を身につけ、下駄を踏み、キラ!と叫び、入学時に学食で上級生が新入生のために開いた歓迎会でスピーチや軍歌を披露)に歓迎された。その後、司馬はそのパーティーでガマの油売りを見事に演じ、彼の明るい性格を表している。当時の学生の多くがそうであったように、彼は語学が嫌いで、早稲田大学で漢文に転向しようと考えたこともあった。しかし、それでもロシア文学や司馬遷の「史記」などは好んで読んでいた。
想いで

エピソード

㈱スマートシニアさんが2023年3月23日に投稿
  • 速読家として知られ、ある友人と家で話していたとき、その友人がコーヒーを1杯飲み終わるうちに、会話しながらであるにもかかわらず、文庫本くらいの大きさの本1冊を読み終わっていたというエピソードがある。この時読んでいたのは小説の資料(当事者の日記など)である。
  • 資料集めへの執念はすさまじく、一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。司馬が資料を集め始めると、関連する古書が業界から払底したという逸話があった。当初は、軽トラックで乗り込み、古本屋に乗り込むや否や手当たり次第に乱読購入し、関係者らと荷台に乗せていったという。『坂の上の雲』執筆に際しては、神田神保町の神田古書店街の古書店主らに依頼し、「日露戦争」という記述のある本を片っ端から買い集め、当時同じ題材の戯曲を書いていた井上ひさしが古書店に行っても資料がなかったという逸話も残る。
  • 名字とその人の顔つきなどから、出身地や先祖を当てるという特技があり、たびたび周囲の人を驚かせた。
    執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。
  • 執筆活動以外はごろ寝をしてテレビを見るくらいで、ゴルフやギャンブルといったようなものへの興味は生涯なく、バンダナ収集が唯一の趣味であった。外出の際は気に入ったバンダナを身につけていた。その多くは遺族が保存し、記念館で一部展示している。