承継
思いで

生い立ち

小学校教諭だった父・憲けん司じ(1918年〈大正7年〉- 1973年〈昭和48年〉)と母・和かず子こ(1919年〈大正8年〉- 2015年〈平成27年〉)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。2人の兄(長男・知とも之ゆきと次男・美み佐さ男お)は大学を卒業して公務員になったが、自身は大学へ行かず、異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父の名前から取ったものである

小学校時代

変なことばかりやっており、そのきっかけは小学校1年の運動会でウンコをもらしたことで、そのイメージを消そうとおもしろいことをやり始めたという。小学4年の頃は友人宅で落語のレコードを聴き、それを真似て学級会で酔っ払いのコントを初披露している[注 3]。 人を笑わせることがとにかく好きだった

学生時代

厳しい家庭で育った志村は、笑うことを許されなかった。そんな彼が日常から解放されたのは、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組だった。この時、志村はお笑いの道に進むことを決意する。ビートルズのファンだった彼は、彼らの反骨精神(長髪や服装など)に憧れ、大きな影響を受けたという。

ドリフターズ入り

志村がいかりやの付き人になった経緯は興味深い。高校卒業を目前にした志村は、いかりやと出会い、弟子入りを志願した。雪の中、12時間もいかりやの家の前で待ち続けたが、その忍耐が報われ、グループに欠員が出ることを条件に仮採用となった。1週間後、後楽園ホールに呼び出された志村は、いかりやから正式に採用されたことを告げられた。志村は、「じゃあ、(高校を)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から青森に行くんだよ!」と言われた。

芸人(初期)

ドリフのメンバーとなり、ギターを弾くようになった志村けんは、当初はなかなか漫才のギャグを展開することができなかった。しかし、1976年の『8時だョ!全員集合』での東村山音頭をきっかけに、徐々に人気を集めていく。1976年に放送された『8時だョ!全員集合』で披露した東村山音頭で、全国的に知名度がアップした。

芸人(中期)

志村は、1985年に「全員集合」に出演したのをきっかけに、人気芸人となった。しかし、お笑いやバラエティ以外の映画やテレビ番組では俳優の役を演じず、一貫して「俳優としてドラマや映画に出ることはない」と考えていた。長期間の過労で体調が悪化し、1999年12月31日に体調不良を理由にテレビ出演を含む一切の商業活動を辞退したが、1999年に公開された映画「鉄道員」に高倉健監督時代に出演している。原作に登場しない人物を演じてほしいという高倉健の申し出を、家族がそれぞれ自宅の留守番電話にメッセージを残していたので断れなかったと述べている6シーン中1シーンしか登場しないが、志村が第二次世界大戦で妻子を失い、その経験から狂人と化した老人を演じたことで記憶に残る役となった

芸人(後期)

2000年代は健康オタク、動物好きとして知られる一方、お笑い芸人としても活躍していた志村。しかし、テレビの主流であるトーク番組のあり方に疑問を持ち、時代劇の不況を嘆いていた。また、お笑いの賞レースや大会に審査員として出演し、お笑いを専門としていたが、漫才の大会「THE MANZAI 2014」の審査員も務めている。

コロナ感染と死去

2020年3月15日、体調不良の兆候が出始める。翌16日、「志村ナイト」の収録のためフジテレビを訪れるが、体調不良のため控室に入り、30分ほどで退席して帰宅する。翌17日、疲れを感じるようになり、19日には発熱、呼吸困難となった。翌20日、医師が訪れ、重症肺炎と診断された。国立国際医療研究センター病院(新宿区)に転院し、ECMO(体外式膜酸素化装置)を装着した。入院時、肺に影も見られた。その後、病状は時間とともに悪化し、3月29日午後23時10分に亡くなりました。