承継
この想いでサイトは、私たちの愛する人 井植 歳男(三洋電機創業者)さんを記念して作成されました。

※このサイトで、井植さんへの弔意・思い出を投稿することができます。

本名:井植歳男(いうえ としお)
墓地本福寺本福寺(マップ)〒656-2305 兵庫県淡路市浦1310
※井植記念館の情報はページ最後にあります

三洋電機の創業者「井植歳男」は、第2次世界大戦の戦前、戦中を通じた30年間、義兄であった松下幸之助氏を支えて、松下電器産業の創設とその後の発展につくし、日本が連合軍に無条件降伏したことによって余儀なくされた「公職追放」を受けて自ら松下電器を退職した後に、裸一貫、しかも借金を背負って、極端な物不足と凄まじいインフレの真っ只中に三洋電機を興しました。

事業を愛し、郷土を愛し、人を愛し、また無限の夢を抱き、次々にその夢を実現していった「井植歳男」の足跡をご紹介します。

明治35年(1902) 12月28日父清太郎、母こまつの長男として兵庫県津名郡東浦町(現淡路市)に生まれる大正 6年(1917) 6月松下幸之助氏のもとでソケット造りを始める大正7 年(1918)~9月西野田工業専修学校の夜学で製図、設計を学ぶ大正9年(1919)東京方面の販路開拓のため、単身で東京へ駐在大正12年(1923) 9月1日関東大震災に遭遇大正12年(1923) 暮れ入営大正15年(1926) 1月除隊し松下電器に復職昭和 2年(1927) 10月結婚昭和10年(1935) 12月松下電器産業株式会社の設立とともに専務取締役となる
松下無線の社長、松下金属の副社長、松下乾電池、松下電動機の各専務取締役などを兼務

昭和17年(1942) 4月松下造船の社長を兼務、軍の命令下で木造船を造る昭和20年(1945) 8月15日松下電器本社で終戦を迎える昭和21年(1946) 12月松下電器と関連会社の役員を全て辞任昭和22年(1947) 1月個人経営で三洋電機製作所を創設昭和22年(1947) 7月自転車用発電ランプ47型の第1号機発売昭和25年(1950) 4月1日三洋電機株式会社を設立、社長に就任昭和27年(1952) 3月日本で初めてのプラスチックラジオを発売昭和28年(1953) 8月日本で初めての噴流式洗濯機を開発。 我が国に家庭電化の元年をもたらす昭和36年(1961) 10月関西の若手財界人によって、社長学の研修会「井植学校」が始まる昭和37年(1962) 5月藍綬褒章受章昭和37年(1962) 8月 財団法人井植愛郷会設立(当財団の前身)昭和43年(1968) 1月三洋電機株式会社取締役会長に就任昭和44年(1969) 7月16日逝去、正四位勲二等瑞宝章追
1963年には自身の音頭とりで淡路フェリーボート須磨港 - 大磯港間、1998年廃止)を就航させ、次いで同じ淡路島出身の原健三郎らとともに本四架橋の実現運動を始めた(長男・井植敏の「私の履歴書」によれば、歳男は淡路島への国際空港誘致も考えていたという)。1968年1月、社長の座をすぐ下の弟・祐郎に譲って会長に就任し、1969年7月16日に死去した。
井植歳男の名言
 〇 困難な人生にひるむな、自信を失ってはだめだよ。 乗り越えるか、乗り越えないか
    が分かれ道になるのだから
  あくまで前向きに進みたい。 どこよりも立派な品質、性能を備えた大衆価格のもの
    をこしらえ、我々の手によって国土を再建しょう
 〇 いま開発した商品が一品も売れなくなる研究をせよ
 〇 どんな時でも、相手の立場をまず考えよ。 相手の便利、経済、楽しみ、喜び、そし
    て繁栄が第一だ それを自分の事業に結び付けてこそ自分の幸福が得られるのだ
 〇 小さなことばかり考えていると、人柄も小さくなってしまう。 大きなことばかり
    考えていると大きくなる
 〇 与えられた仕事を命じられたままトレースするのではなく、自分の持つ知識、能力
    技術、アイデアをプラスして自分の足跡を残せ
 〇 困難に遭わない人生というものはありえません。 もしあるとしたら、それは怠けて
    いる証拠だよ
 〇 小さくてもいい、魂のこもったモノをつくろう
            etc.

井植記念館[編集]1946年、井植がジェームス山神戸市垂水区)の異人館、ジェームス邸(三洋電機迎賓館・望淡閣[2])を所有していた関係から、没後ジェームス山、山頂に井植記念館が建てられた[3]。三洋電機の歴史とジェームス山の歴史が紹介されている。ロビーには三洋電機の社員で工業デザイナーの彫刻家富永直樹製作の井植歳男像が設置されている。

         公益財団法人 井植記念会
         井植記念館   兵庫県神戸市垂水区青山台1丁目21-1

※このサイトは、井植歳男に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

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大切な方の思いで

人生史のダイジェスト版

「イギリス人は七つの海を制して、大西洋をわが庭としたというが、自分の夢は、さしずめ、太平洋のかなたに向かって、大きな虹の橋をかけることだ」
この言葉は兵隊検査で久しぶりに故郷の淡路島(兵庫県)に帰った三洋電機(平成21年にパナソニックの子会社となる)の創業者、井植歳男(いうえとしお)の20歳の時の感慨である。私はこの井植の世界を股にかけて活躍しようという気概が何よりも好きだ。それも日本が経済大国となるはるか昔に描いた夢である。
井植は松下幸之助の義理の弟であるが、幸之助に関する本は山ほどあるのに対して井植に関する本となるとほとんどない。だが、関東の日立、東芝の重機メーカーに対して、関西は松下、シャープ、三洋が家電一本で事業展開をしてきた関西の家電御三家である。三洋も御三家の一社に名を連ねる。つまり井植歳男も松下幸之助や早川徳治(シャープの創業者)と並ぶ戦後の家電業界を牽引した列記としたパイオニアには違いないのである。
井植は淡路島の生まれで、父親が船乗りであったことから初めは船乗りを志していた。13歳の時に父親が急性腹膜炎で亡くなり、高等小学校を出るとすぐに船に乗った。ところがその船が、たまたま大阪の安倍川で倉庫の爆発に遭い、井植は命からがら陸岸めざして油っぽい海を泳いで命拾いするという経験をする。そんないきさつがあり、こんどは姉の嫁ぎ先である松下幸之助の仕事を手伝うことになった。船乗りになるつもりが、河童(カッパ)が陸に上がった形で電気器具をつくることになったのだ。以来、50数年間、電機産業一筋で突き進むことになる。戦後は義兄の幸之助と別れて三洋電機を創業する。 
三洋を創業した時は、まだ敗戦の傷跡が残り、食糧不足、物不足で日本中が生きることだけで精一杯の時である。井植は松下電器時代からの借金があり、実質的にはゼロからのスタートではなくマイナスからのスタートだったといっていいだろう。わずか20名の出発であったが、その時の井植の社員の前での訓示がふるっている。明確に世界を意識しているのだが、恐らく社員の半分は夢物語にしか思わなかっただろう。
「本日、ここに三洋電機製作所北条工場を創業する。総勢20名で出発する工場であるが、われわれの前途は大きい。ここで製造する発電ランプは、近い将来、200万個売れる。いまや世界の人口は27億人、そのうち自転車常用者は約10億人、その人達の半分にわれわれの発電ランプをつかってもらうつもりだ・・・」
「ええか、敗戦呆けから一刻も早く立ち直ることや。それには島国根性を捨てないかん。三洋は、これから世界一の発電ランプメーカーになるんやという自信をまず持たないかん・・・」
そして世界を股にかけて商売をしようと名前を三洋とネーミングした。三洋とは太平洋、大西洋、インド洋のこと。世界を販路にしようという思いが込められている。
想いで

残した言葉

㈱スマートシニアさんが2023年3月25日に投稿
全ての言葉が心に響きます...

  • 私は、いつもゼロやマイナスから出発して、新しいものをつくる立場におかれてきた。だから、少しくらい困難にぶつかっても、くじけない。私は、無である。ハダカである。知恵も、財産も、信用もない。この心境に立って考えれば、おのずと活路が開けてくる。
  • 与えられた仕事を、命じられたままトレースするのではなく、 自分の持つ知識、技術、アイデア等々、何かをプラスしてみよ。先人の歩んだ足跡よりも、大きなものを残す気概、それが大切だ。
  • どんなときでも、まず、相手の立場を考えよ。相手の便利、経済、楽しみ、よろこび、そして、繁栄が第一だ。それらを、自分の事業に結びつけてこそ、自分の幸福が、得られるのだ。
  • 水は、低きに向かって流れるのが道理である。しかし、当事者として仕事に没頭していると、枝葉末節に気をとられ、道理や本質を見失うことが多いものだ。何事も本質を見きわめ、合理的に考えよ。