承継
軌跡

(幼少期)

1876年明治9年)、観善小学校(現・徳島市新町小学校)に入学したが、学校になじめず家に逃げ帰ることも多かった[1]。鳥居は自身の教育観として、学校は単に立身出世の場であり、裕福な家庭に生まれた自分に学校は必要ない。むしろ家庭で自習する方が勝っていたと語っている[2]。しかし、学校の教科書にあった世界の人類の人種に関する記述が印象に残り、のちにアジア各地を調査する原点になった[1]。なお、晩年の自伝「ある老学徒の手記」には「尋常小学校を中途で退学」と記されていたため、多くの資料でも同様の記載がなされていたが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の所蔵資料から新町小学校尋常小学下等科の卒業証書が発見されており記憶に錯誤があったものとみられている[3]。また、上智大学文学部長だった1931年の日付が入った鳥居の履歴書も発見されており「尋常小学は寺町(現新町)小学校ニテ学修、高等は中途ニテ退学」と記載押印されている[3]

中学校の教師の教えを受けながら[2]独学で歴史や文学、英語ドイツ語数学などを学ぶ[1]