この追悼サイトは、 ポール・モーリア (フランスの作曲家、指揮者、ピアニスト)さまのために作成されました。
享年81歳 、誕生日 1925年3月4日、命日 2006年11月3日
※ ポール・モーリアさんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
ポール・ジュリヤン・アンドレ・モーリア(Paul Julien André Mauriat, 1925年3月4日 - 2006年11月3日)は、フランスの作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト、チェンバロ奏者。特に日本ではNHKラジオ第1放送などで頻繁にオンエアされ、レイモン・ルフェーブル、フランク・プゥルセルらと並ぶイージーリスニング界の著名音楽家となった。
1948年、ギタリストのマルセル・ビアンキ[注 2]が率いるオーケストラに創設メンバーとして加入、同年12月から9ヶ月間に亘るエジプト・ツアーに参加する。
1951年にパリ進出。近郊のダンスホールで演奏していたフランク・プゥルセル楽団にピアニストとして参加するが、翌年帰郷し、同7月28日にイレーヌ・ボボと結婚[注 3]。ダンスホール「ル・ヴァンピング(Le Vamping à Marseille)」[注 4]でのオーケストラ活動が評判となり、1957年にRGM[注 5]レーベルからレコードデビュー。
1959年に再度パリへ進出し、音楽プロデューサーであるレオ・ミシールに誘われてバークレー傘下で新進アーティストを扱う新興レーベル「BEL AIR」に移籍[注 6]。また、多忙となったプゥルセルに代わってグロリア・ラッソのためにポール・フェルサン(Paul Fersen)の変名を使って編曲・伴奏する一方、シャルル・アズナヴールに対して120曲を超えるアレンジを提供、1960年12月のアルハンブラ劇場公演などでオーケストラの指揮をとる。さらに、ミレイユ・マチューのデビュー曲「愛の信条」を作曲し、専任オーケストレーターとして1966年9月のオランピア劇場公演などで指揮し、フランシス・レイらとともに全米プロモーションツアーにも同行している。このほか、モーリス・シュヴァリエの新作レコーディングを機に、同じバークレー社の同僚であったレイモン・ルフェーヴルと1962年から3年間に亘って仕事を共にしている[注 7]。
「恋はみずいろ」以降も、フランス語圏や英語圏のヒット・ポップスや映画音楽を中心にレコーディングを続けるが、1970年代半ばから1980年代前半にかけてはブラジル音楽に傾倒。1977年にはアシスタントのジェラール・ガンビュスらとリオデジャネイロに渡り、現地ミュージシャンを起用したアルバム『夜明けのカーニバル/ポール・モーリア・ラブ・サウンズの熱い風』(FDX-340)を制作[注 11]。また1978年にはフュージョンをコンセプトとしたアルバムを企画、ニューヨークのパワーステーション スタジオでウィル・リー、ランディー・ブレッカー、マイケル・ブレッカー等を起用したオリジナル・アルバム『オーバーシーズ・コール/ポール・モーリア イン ニューヨーク』(FDX-390)を制作する。さらに、1980年代半ばにはクラシック音楽を取り上げたアルバムを3年連続で制作、原題を『CLASSICS IN THE AIR』に統一したシリーズ作品として発表、日本でも『愛の夢/ポール・モーリア クラシックヒッツ』(1985年・28PP-102)、『G線上のアリア/ポール・モーリア・クラシック・ヒッツ』(1986年・28PP-111)、『プリマヴェーラの微笑〜ポール・モーリア クラシック アヴェニュー』(1987年・28PP-134)として発表されている。
1992年、フランス文化省より芸術文化勲章「オフィシエ・デ・ザール」[4]を、1997年には同「コマンドゥール・デ・ザール」(Commandeur des Arts)を受賞しているほか、生前の最終公演地となった大阪市ではコンサートに先立ってモーリア夫妻を市役所に招いて大阪市名誉市民に任命、併せて「大阪市の鍵」が贈呈されている[5]。
1993年、所属していたフィリップスの本国担当者との対立からポニーキャニオンへ移籍。翌年リリースされた『CHAGE & ASKA コレクション/ポール・モーリア』(PCCY-00564)を皮切りに、契約期間4年の間に7枚のアルバムを制作する。
2000年、1982年にモーリアが作曲しながらスタジオ録音が実現しなかった『私は風が好き』を含む4曲をプライベート録音、2003年の来日コンサート会場および発売元のプロモーター「ミュージックリーグ」の通信販売限定でリリース(MLPM-2003)。これがモーリアの最終レコーディングと目されている。

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享年81歳 、誕生日 1925年3月4日、命日 2006年11月3日
※ ポール・モーリアさんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
ポール・ジュリヤン・アンドレ・モーリア(Paul Julien André Mauriat, 1925年3月4日 - 2006年11月3日)は、フランスの作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト、チェンバロ奏者。特に日本ではNHKラジオ第1放送などで頻繁にオンエアされ、レイモン・ルフェーブル、フランク・プゥルセルらと並ぶイージーリスニング界の著名音楽家となった。
来歴
BEL AIR時代まで
1925年、フランス南部マルセイユで郵便局員の父ヴィクトール、母クローディアとの間に4人兄弟の末っ子として生まれる。6歳でアマチュア音楽家でもあった父親からピアノを習い、10歳でマルセイユ地方音楽院[注 1]に入学。ソルフェージュ(1939年)とピアノ(1940年)をともに首席で修了して1941年に卒業。その後、一度は父親と同じ職に就きながらアマチュアジャズバンドで音楽を続けるも、半ば家族の反対を押し切る形で1943年にマルセイユのダンスホール「ブラッスリー・ラ・クーポール(La Brasserie La Coupole)」専属オーケストラでピアニスト兼アレンジャーとしてプロ・デビューし、翌年には同楽団の指揮者を兼任する。1948年、ギタリストのマルセル・ビアンキ[注 2]が率いるオーケストラに創設メンバーとして加入、同年12月から9ヶ月間に亘るエジプト・ツアーに参加する。
1951年にパリ進出。近郊のダンスホールで演奏していたフランク・プゥルセル楽団にピアニストとして参加するが、翌年帰郷し、同7月28日にイレーヌ・ボボと結婚[注 3]。ダンスホール「ル・ヴァンピング(Le Vamping à Marseille)」[注 4]でのオーケストラ活動が評判となり、1957年にRGM[注 5]レーベルからレコードデビュー。
1959年に再度パリへ進出し、音楽プロデューサーであるレオ・ミシールに誘われてバークレー傘下で新進アーティストを扱う新興レーベル「BEL AIR」に移籍[注 6]。また、多忙となったプゥルセルに代わってグロリア・ラッソのためにポール・フェルサン(Paul Fersen)の変名を使って編曲・伴奏する一方、シャルル・アズナヴールに対して120曲を超えるアレンジを提供、1960年12月のアルハンブラ劇場公演などでオーケストラの指揮をとる。さらに、ミレイユ・マチューのデビュー曲「愛の信条」を作曲し、専任オーケストレーターとして1966年9月のオランピア劇場公演などで指揮し、フランシス・レイらとともに全米プロモーションツアーにも同行している。このほか、モーリス・シュヴァリエの新作レコーディングを機に、同じバークレー社の同僚であったレイモン・ルフェーヴルと1962年から3年間に亘って仕事を共にしている[注 7]。
フィリップス時代と晩年
1965年、BEL AIRとの契約満了後にポール・モーリア・グランド・オーケストラ (LE GRAND ORCHESTRE DE PAUL MAURIAT) としてフィリップスと契約。1968年に「恋はみずいろ」(Philips 40495)[1]がビルボード全米ヒットチャートで2月10日付より連続5週トップを記録したのを機に世界的にヒット(約500万枚)。年間チャートでも3位にランクされた。RIAAゴールドディスク、ACCディスク大賞などを受賞。イギリスでは12位、日本では18位まで上昇した。作曲は「マンチェスターとリバプール」などを代表曲にもつアンドレ・ポップで、オリジナルとなるヴィッキーのヴァージョンも前年の67年に発表された。「恋はみずいろ」を収録したアメリカ編集アルバム『Blooming Hits』(PHS 600-248)[2]も3月2日付から5週連続でBillboard 200の1位を記録した。続くシングル「たとえ君が戻っても」(Philips 40530。オリジナルはクロード・フランソワのボーカル作品)[3][注 8]も6月15日付ビルボード・イージー・リスニング・チャートで7位のヒット[注 9]。この年、モーリアは全米でのプロモーションのために単身渡米し、テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』などに出演。1969年以降、北米を中心にコンサート・ツアーを開催する[注 10]。「恋はみずいろ」以降も、フランス語圏や英語圏のヒット・ポップスや映画音楽を中心にレコーディングを続けるが、1970年代半ばから1980年代前半にかけてはブラジル音楽に傾倒。1977年にはアシスタントのジェラール・ガンビュスらとリオデジャネイロに渡り、現地ミュージシャンを起用したアルバム『夜明けのカーニバル/ポール・モーリア・ラブ・サウンズの熱い風』(FDX-340)を制作[注 11]。また1978年にはフュージョンをコンセプトとしたアルバムを企画、ニューヨークのパワーステーション スタジオでウィル・リー、ランディー・ブレッカー、マイケル・ブレッカー等を起用したオリジナル・アルバム『オーバーシーズ・コール/ポール・モーリア イン ニューヨーク』(FDX-390)を制作する。さらに、1980年代半ばにはクラシック音楽を取り上げたアルバムを3年連続で制作、原題を『CLASSICS IN THE AIR』に統一したシリーズ作品として発表、日本でも『愛の夢/ポール・モーリア クラシックヒッツ』(1985年・28PP-102)、『G線上のアリア/ポール・モーリア・クラシック・ヒッツ』(1986年・28PP-111)、『プリマヴェーラの微笑〜ポール・モーリア クラシック アヴェニュー』(1987年・28PP-134)として発表されている。
1992年、フランス文化省より芸術文化勲章「オフィシエ・デ・ザール」[4]を、1997年には同「コマンドゥール・デ・ザール」(Commandeur des Arts)を受賞しているほか、生前の最終公演地となった大阪市ではコンサートに先立ってモーリア夫妻を市役所に招いて大阪市名誉市民に任命、併せて「大阪市の鍵」が贈呈されている[5]。
1993年、所属していたフィリップスの本国担当者との対立からポニーキャニオンへ移籍。翌年リリースされた『CHAGE & ASKA コレクション/ポール・モーリア』(PCCY-00564)を皮切りに、契約期間4年の間に7枚のアルバムを制作する。
2000年、1982年にモーリアが作曲しながらスタジオ録音が実現しなかった『私は風が好き』を含む4曲をプライベート録音、2003年の来日コンサート会場および発売元のプロモーター「ミュージックリーグ」の通信販売限定でリリース(MLPM-2003)。これがモーリアの最終レコーディングと目されている。
死去
2006年10月末、フランス南部ペルピニャンの別荘に滞在中、体調不良を訴え検査入院したところ、急性白血病であることが判明。同年11月3日午前1時、急性白血病による心不全のためペルピニャンの病院で逝去。81歳没。6日に火葬された。モーリア死去の報道に伴い、同11月6日のJFN系FMラジオ番組『JET STREAM』や同12月17日放送のTBS系ラジオ番組『バックグラウンド・ミュージック』などで追悼特別番組が放送された。日本での音楽活動
日本においては、1965年12月に他アーティストのシングル盤B面収録曲として「夜のメロディー」が初めて発表(FL-1203)され[注 12]、翌年5月に発売された『超ステレオ! 魅惑のヨーロッパ・トップ・ヒッツ』(SFL-7284)、『赤いサラファン/永遠なるロシア〜ポール・モーリア・ストリングス・ムード』(SFX-7052)の2アルバム以降、1990年代はじめまで概ね年間2〜3枚のペースでコンスタントに新作アルバムを発表。シングル盤でも「恋はみずいろ」(1968年)、「蒼いノクターン」(1969年)、「エーゲ海の真珠」(1971年)、「涙のトッカータ」(1973年)、「オリーブの首飾り」(1975年)など立て続けにヒットを重ねた。とりわけ「オリーブの首飾り」のヒット効果は大きく、ベストアルバムとして発売された『ポール・モーリア グレイテスト・ヒッツ・リフレクション18』(FDX-7001)が1976年度のオリコン年間アルバムチャート21位に、『ポール・モーリア グレイテスト・ヒッツ24』(FDX-9201/2)が1977年度の同11位に記録されている。また、1970年代を中心にNHKラジオ第1放送で、レイモン・ルフェーブル、カラベリときらめくストリングス、カーメン・キャバレロ、ニニ・ロッソなどとともに、さかんにオンエアされた。
注:このサイトは、ポール・モーリアに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝
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