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この追悼サイトは、 小津 安二郎(映画監督・脚本家)さまのために作成されました。

享年60歳 、誕生日 1903年12月12日、命日 1963年12月12日
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小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉12月12日)は、日本映画監督脚本家日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。


1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[27][28]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[4]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[29]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校代用教員として赴任した[30]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[31][32]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[31]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[33]

1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏さかいひろしの撮影助手として牛原虚彦監督組についた[41][42]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[42]。12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した[41]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[43]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[43][44]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[36][44][45]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[36]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[45]

1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[59]。『人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[58]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[55]1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[32]。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[32][60]。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした[4]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に小津家は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪南町に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[61]

小津作品初のカラー映画となった『彼岸花』は、大映から山本富士子を借りるなどスターを並べたのが功を奏して、この年の松竹作品の興行配収1位となり、小津作品としても過去最高の興行成績を記録した[71][98]1959年2月には映画関係者で初めて日本芸術院賞を受賞した[4]。この年は『お早よう』を撮影したあと、大映から『大根役者』を映画化する話が持ち上がり、これを『浮草』と改題して撮影した[71]1960年には松竹で『秋日和』を撮影したが、主演に東宝から原節子と司葉子を借りてきたため、その代わりに東宝で1本作品を撮ることになり、翌1961年に東宝系列の宝塚映画で『小早川家の秋』を撮影した[85]

1962年2月4日、最愛の母あさゑが86歳で亡くなった[4]この年に最後の監督作品となった『秋刀魚の味』を撮影し、11月に映画人で初めて日本芸術院会員に選出された[99]1963年には次回作として『大根と人参』の構想を進めたが、この脚本は小津の病気により執筆されることはなく、ついに亡くなるまで製作は実現しなかった[56][85][100]。『大根と人参』は小津没後に渋谷実が構想ノートをもとに映画化し、1965年に同じタイトルで公開した[85]。小津の最後の仕事となったのは、日本映画監督協会プロダクションが製作するいすゞ自動車の宣伝映画『私のベレット』(1964年)の脚本監修だった[100]

作品一覧
1.懺悔の刃(1927)      
2.若人の夢(1928)      19.お嬢さん(1930)   38.戸田家の兄妹(1941)
3.女房紛失(1928)      20.淑女と髯(1931)   39.父ありき(1942)
4.カボチャ(1928)      21.美人哀愁(1931)   40.長屋紳士録(1946)
5.引越し夫婦(1928)    22.東京の合唱(1931) 41.風の中の牝鶏(1948)
6.肉体美(1928)      23.春は御夫人から(1932) 42.晩春(1949)
7.宝の山(1929)       24.生まれてみたけれど(1932) 43.宗方姉妹(1950)
8.若き日(1929)       25.青春の夢いまいずこ(1932) 44.麦秋(1951)
9.和製喧嘩友達(1929)
10.大学は出たけれど(1929)26.また逢う日まで(1932) 45.おちゃづけのあじ(1952)
11.会社員生活(1929) 27.東京の女(1933)28.非常線の女(1933)46.東京物語(1953)
12.突貫小僧(1929)     29.出来ごころ(1933)    47.早春(1956)
13.結婚学入門(1930)    30.母を恋はずや(1934)   48.東京暮色(1957)
14.朗らかに歩め(1930)   31.浮草物語(1934)     49.彼岸花(1958)
15.落第はしたけれど(1930) 32.箱入り娘(1935)     50.お早よう(1959)
16.その夜の妻(1930)    33.東京の宿(1935)     51.浮草(1959)
17.エロ神の怨霊(1930)   34.鏡獅子(1935)      52.秋日和(1960)
18.足に触った幸運(1930)  35.大学よいとこ(1936)   53.小早川家の秋(1961)
36.一人息子(1936)   37.淑女は何を忘れたか(1937) 54.秋刀魚の味(1962) 

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松阪市立歴史民俗資料館①
 小津安二郎松阪記念館  三重県松阪市殿町1539番地 松阪市歴史民俗資料館2階
               0598-23-2381    

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このメッセージは、 2023年10月1日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
誕生日と命日が同じの人は極少数と思いますが、小津安二郎さんの人柄を反映しているのかも知れません。日本人の心を最も描ききった監督でしょう  合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年10月1日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
誕生日と命日が同じの人は極少数と思いますが、小津安二郎さんの人柄を反映しているのかも知れません。日本人の心を最も描ききった監督でしょう  合掌
軌跡

(生い立ち)

1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[4][5][6]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[5]。生家の小津新七しんしち家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門よえもん家の分家にあたる[7]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋ゆあさや」を営んでいた[7][8][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[7][10]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[5][7]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[8]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[13]