承継
この追悼サイトは、 下村 脩(ノーベル化学賞受賞者)さまのために作成されました。

享年90歳 、誕生日 1928年8月27日、命日 2018年10月19日
※ 下村さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。

下村 脩(しもむら おさむ、1928年昭和3年)8月27日 - 2018年平成30年)10月19日)は、生物学者(有機化学海洋生物学)。

学位理学博士名古屋大学、1960年)。位階従三位ボストン大学名誉教授ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。


概要[編集]有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。旧制長崎医科大学名古屋大学プリンストン大学ボストン大学ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を継続。その中の一つ、オワンクラゲ緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年(平成20年)のノーベル化学賞受賞に結びついた[1]

2010年ごろには、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ファルマスの自宅に設置した発光タンパク質研究室で研究を継続していた[2][3][4]。身長は182cm。

旧制中学卒業後は旧制高校進学を志すが、中学時代に全く勉強をすることができず内申書を取得できなかったため断念[5]。3年近く浪人生活を送り戦後、長崎市への原子爆弾投下により校舎が破壊されたため諫早市小野の下村の自宅から見える近所に移転してきた旧制の長崎医科大学附属薬学専門部長崎大学薬学部の前身の薬学専門学校)に進学し[5]、1951年(昭和26年)卒業。旧制中学時代は勤労動員のため全く勉強することができず[6]、進学した薬学専門部も、終戦直後の中航空機乗員養成所を借りた仮校舎でろくな勉強もできないまま卒業したため、知識を習得したのは名古屋大学での研究生時代以降だという[7]

薬学専門部卒業後、武田薬品工業の研究職を志すが、面接担当者に「あなたは会社員に向きません」との忠告を受け断念[7]。下村はこのときの経験を、初めから会社員志望でなかったことに加え、面接時に無愛想な態度をとったからと後述している。就職試験に落ちた下村は長崎大学薬学部の安永峻五教授の下で実験実習指導員を4年間務めた。安永は下村を研究者として育成し幅広い知識を習得させるため[8]分子生物学で有名な名古屋大学理学部江上不二夫教授の下に1年間内地留学させたいと考えた。1955年(昭和30年)春、安永と下村は、名古屋大学を訪れたが、江上は不在。代わりに応対した有機化学平田義正教授は、「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。下村は、分子生物学も有機化学も当時は知らなかったので、天の指図だと思い平田教授の有機化学研究室に行くことを決めた[9][10]

1955年(昭和30年)から平田の有機化学研究室に研究生として所属[11]。平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルルシフェリンの精製と結晶化」だった。これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった[9]下村は、研究に没頭。10か月後の1956年(昭和31年)2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した[12]。27歳の下村の成し遂げた業績であった[13]。その後も実験を続け論文として発表した[14]

  • 1957年(昭和32年) -「Crystalline Cypridina Luciferin」[15]
  • 1959年(昭和34年)- 海ホタルルシフェリンの構造[16]
  • 1959年(昭和34年)- 海ホタルルシフェリンの構造2-3[17]
  • 1960年(昭和35年)- 5-イミダゾロンに関する研究1-2[18]
この間、1959年(~1963年)には、長崎大学の助手となる[19]プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は、下村の論文に感銘を受け、プリンストン大学に招聘1959年(昭和34年)、下村は受諾した。平田はハーバード大学留学体験から博士の学位により報酬が倍増されることを知っていたため、専門学校卒業で大学に入学すらしていない下村の本来の身分は、只の雑用係の助手であり大学院に入る資格も無かった為、当然博士課程の学生ではなかったが、論文博士として下村に博士号を与えた[20]。1960年(昭和35年)4月に、「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」の論文に対して、名古屋大学から理学博士号が授与された[21]。1960年(昭和35年)8月に、横浜港から氷川丸にて渡米した[5][22]

アメリカでの活動[編集]200px-Krugman-Tsien-Chalfie-Shimomura-Kobayashi-Masukawa-press_conference_Dec_07th%2C_2008-1.jpg2008年12月7日、スウェーデン王立科学アカデミーにて1960年(昭和35年)、フルブライト奨学生として渡米。プリンストン大学でジョンソン教授に師事した後、名古屋大学助教授としての帰日期間を挟んで1965年(昭和40年)再渡米。その後、1965年(昭和40年)10月から1982年(昭和57年)までプリンストン大学上席研究員、1982年(昭和57年)から2001年(平成13年)までウッズホール海洋生物学研究所 (MBL) 上席研究員を務める一方、1981年(昭和56年)から2000年(平成12年)まではボストン大学医学部客員教授を兼任した。2001年(平成13年)にはボストン大学名誉教授となる[26]

研究活動を通じ、ウミホタル・オワンクラゲなど発光生物の発光メカニズムを次々と解明するに至った。なかでもプリンストン大学時代にフライデーハーバー実験所で行ったオワンクラゲからのイクオリンおよび緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見(1962年)とその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしている。主たる研究活動の場が米国であったためノーベル賞受賞まで日本での知名度は低かった。

2001年以降の活動[編集]2001年(平成13年)にウッズホール海洋生物学研究所を退職してからは自宅に研究室を作り研究を続けている[24]

2007年(平成19年)1月に「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」により、2006年度朝日賞を受賞。2007年長崎大学名誉校友の称号を受ける[24]

2008年(平成20年)に、「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と開発」によって、マーティン・チャルフィーロジャー・Y・チエンと共にノーベル化学賞を受賞。

2008年(平成20年)ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員および名古屋大学特別招へい教授就任[27]2009年(平成21年)名古屋大学特別教授。

2009年(平成21年)1月1日付で福知山市名誉市民[28]。3月21日に佐世保市名誉市民、翌22日に長崎県名誉県民顕彰を受ける。また、母校の一つである佐世保南高校に顕彰碑が建立された[29]

2010年(平成22年)4月2日 オワンクラゲで縁がある鶴岡市立加茂水族館(別名クラゲ水族館)で、一日名誉館長を務めた。

2010年(平成22年)4月6日には母校の長崎県立諫早高校に銅像建立[30]、同年4月7日には長崎大学にメダルのレプリカを貸与している[31]

2014年(平成26年)には、下村家の親族の墓所がある埼玉県深谷市から深谷市親善大使に委嘱された[32]

2018年10月19日6時15分、老衰のため、長崎市で死去[33][34]。90歳没。叙従三位[35][36]

栄典・受賞歴[編集]   下村脩名誉博士顕彰記念館  jerryfish.jpg?resize=200%2C150
 下村脩名誉博士顕彰記念館 長崎市文教町1-14 長崎大学薬学系事務室総務担当
         095-819-2413

緑色蛍光タンパクとは何か

緑色蛍光タンパク(Green Fluorescent Protein:GFP)とは、 オワンクラゲ(Aequorea victoria)から単離されるタンパク質の一種です。(上の右画像)

※注:このサイトは、下村脩に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年5月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
海岸で朝6時から夜まで毎日、家族総出でクラゲを取り続け17年間で85万匹を捕獲し分析、ごく微量しか含まれないGFPが光る仕組みを突き止めた。
この物質の遺伝子を使うと緑色の光が目印となり、病気を起こすタンパク質などの行方をマウスの体内で追跡できる。
医学や生物学の研究で世界中で使われるようになった。 気の遠くなるような長年の努力の賜物です。 偉大な研究に改めて感謝いたします。  合掌

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2024年5月9日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
海岸で朝6時から夜まで毎日、家族総出でクラゲを取り続け17年間で85万匹を捕獲し分析、ごく微量しか含まれないGFPが光る仕組みを突き止めた。
この物質の遺伝子を使うと緑色の光が目印となり、病気を起こすタンパク質などの行方をマウスの体内で追跡できる。
医学や生物学の研究で世界中で使われるようになった。 気の遠くなるような長年の努力の賜物です。 偉大な研究に改めて感謝いたします。  合掌
軌跡

(生い立ち)

京都府福知山市に陸軍軍人の家に生まれる。父の生家は長崎県雲仙市瑞穂町にあり代々庄屋を勤めた名家。現在は従妹が在住している。満州国、長崎県佐世保市大阪府等在住を経て、旧制中学生のとき母の実家・長崎県諫早市疎開し、勤労動員生活を送る。旧制長崎県立佐世保中学校佐世保南高校佐世保北高校の前身)、大阪府立住吉中学校を経て、16歳の時、諫早市にて原爆に遭遇(爆心から20km先)。終戦後、長崎県立諫早中学校を卒業。

(エピソード)

2008年(平成20年)ノーベル化学賞を受賞すると、その受賞理由となった緑色蛍光タンパク質 (Green Fluorescent Protein; GFP) がオワンクラゲ由来であることも報道され、オワンクラゲを飼育しているクラゲ水族館こと鶴岡市立加茂水族館が注目された。これにより、同館の入館者数が通常の1.5~2倍に増加した[44]

同館で飼育されているオワンクラゲは、自然界から採取した成体は発光するものの、人工繁殖で世代交代させると発光しなくなっていた。そのことを聞いた下村が2008年(平成20年)10月24日に直接同館に電話をし、「セレンテラジンを餌に混ぜれば、2週間で光る」とアドバイスをした。そして、下村の紹介で、三重大学大学院生物資源学研究科の教授、寺西克倫からセレンテラジンを譲り受け、発光実験に取り組んだ。