この追悼サイトは、 オリビア・ニュートン・ ジョン(オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手)さまのために作成されました。
享年73歳 、誕生日 1948年9月26日、命日 2022年8月8日
※ オリビア・ニュートン・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
オリビア・ニュートン=ジョン(Dame Olivia Newton-John[注釈 1]AC DBE、1948年9月26日 - 2022年8月8日)は、オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手、女優。
1970年代から1980年代半ばにかけて多くのヒット曲を放ち、高い人気を博した。以後はレコーディングやコンサートの会社運営、自社ブランドのオーナーなど実業家としても活躍。乳がんを患ってからはがん治療の啓発活動家としても広く知られた[2]。社会活動にも積極的であり、同性婚への支持を表明するなど、ゲイ・アイコンの一人としても有名[3]。
そうした活動が認められ、オーストラリア勲章(英語版)、大英帝国勲章を受章し、日本でも旭日小綬章が授与されている[4]。公称身長は、167.5 cm(5フィート6インチ)。ARIA殿堂顕彰[5]。
代表曲に「愛の告白」「そよ風の誘惑」「愛のデュエット」「マジック」「ザナドゥ」「フィジカル」「ハート・アタック」「運命のいたずら」「グレイス&グラティチュード」、日本では「ジョリーン」「カントリー・ロード」などが有名。
「ビルボードの選ぶ歴史上最も偉大なHot 100女性アーティスト」において7位[6]。
5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。
1975年にアメリカに移住した後も2曲目の全米No.1「そよ風の誘惑 (Have You Never Been Mellow)」などのヒットが生まれた。
歌手としての人気が一度落ち着いていた1978年に女優としてミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも「愛のデュエット」、アカデミー賞歌曲賞候補となった「愛すれど悲し」、「想い出のサマー・ナイツ」が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。
同年にはカントリーからポップ・ロックへ路線転換して発表されたアルバム『さよならは一度だけ』が全米7位のヒットとなり、アルバムからのリード・シングル「愛は魔術師」も全米3位を記録するなど歌手としても新たな局面を迎える。
1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の「フィジカル」をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録(エアプレイ中心のラジオ&レコーズでは「フィジカル」は1位にならず、ビルボード、キャッシュボックスで「フィジカル」に抑えられ2位どまりだったフォリナーの「ガール・ライク・ユー」が逆に1位を独走していた)。最終的にこの曲はビルボードにおいて、1980年代の全米チャートで最もヒットした曲となった。当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。
「フィジカル」を収録したアルバム『虹色の扉』では収録曲全曲にミュージック・ビデオが作られるなど当時としては画期的な試みが行われた。
1982年には「フィジカル・ツアー」を開催して盛況を得るが、その後15年余りコンサート・ツアー活動を行わなくなる。
1988年1983年には盟友パット・キャロルとオーストラリアからの輸入雑貨を取り扱うブティック「コアラ・ブルー」をオープンさせる。1992年に店は畳むものの、2000年代に入ってオリビアが手掛けるワインブランドとして復活。
1983年にトラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲「運命のいたずら」、「ディスペレイト・タイムス」といったヒットを挟み、1985年のシングル「ソウル・キッス」がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、アメリカ人の俳優であるマット・ラッタンジーとの結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。
1986年には娘クロエ・ラッタンジーを出産し、その後は環境保護活動などに取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。
2001年1992年には乳がん闘病中と公表、以後はがん治療の啓発活動にも力を入れるようになった[2]。
1994年には全曲の作詞作曲を手掛けた『ガイア〜新たなる旅立ち〜』を発表して音楽界に復帰。アルバムはオーストラリアで7位を記録するなどヒット。1995年にマット・ラッタンジーと離婚。
1998年にはジョン・ファーナム、アンソニー・ウォーロウと「メイン・イベント」を開催、その模様を収録したライヴCDはオーストラリアのアルバムチャートで1位を記録。
2002年、同郷オーストラリア人歌手とのコラボレートを中心としたアルバム『デュエット・ウィズ・オリビア』を発表、オーストラリアのアルバムチャートでは5位を記録。
同年、オーストラリアレコード産業協会主催のARIAミュージック・アワードで殿堂入り[5]。
2003年には25年ぶりに来日公演を果たし[9]、その後も2006年、2010年、2015年に来日公演を行った。
2004年、全曲女性歌手の曲のカバーのみで構成されたアルバム『インディゴ:ウーマン・オブ・ソング』を発表。
ジョン・イースターリングと(2010年)2008年、ジョン・イースターリングと再婚。
2010年、ホッケーをモチーフとしたカナダ映画『スコア』に主演、トロント国際映画祭にも出展された[10]。
2012年、約35年ぶりに、ジョン・トラボルタと共演したデュエット・アルバム『ディス・クリスマス』をリリース[12]。同年には自身がうつ病との闘病生活を送っている事を告白。
2014年からラスベガスで常設公演『サマー・ナイツ』をスタート[14]、公演は2016年まで断続的に開催された。
2016年、長年のコラボレーターであるエイミー・スカイ、ニールセン・チャップマンとのコラボレート・アルバム『リヴ・オン』を発表。
2017年、がんが脊髄に転移していると公表[15]。
2018年、自伝"Don't Stop Believin'"を上梓、2022年には日本でも『オリビア・ニュートン・ジョン自伝 信じることをやめないで』の題で発売された。
2021年秋に、日本政府より『日本国の音楽文化の発展及び友好親善に寄与した功』により旭日小綬章が授与された[4]。
享年73歳 、誕生日 1948年9月26日、命日 2022年8月8日
※ オリビア・ニュートン・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
オリビア・ニュートン=ジョン(Dame Olivia Newton-John[注釈 1]AC DBE、1948年9月26日 - 2022年8月8日)は、オーストラリア出身のイギリス人ポピュラー歌手、女優。
1970年代から1980年代半ばにかけて多くのヒット曲を放ち、高い人気を博した。以後はレコーディングやコンサートの会社運営、自社ブランドのオーナーなど実業家としても活躍。乳がんを患ってからはがん治療の啓発活動家としても広く知られた[2]。社会活動にも積極的であり、同性婚への支持を表明するなど、ゲイ・アイコンの一人としても有名[3]。
そうした活動が認められ、オーストラリア勲章(英語版)、大英帝国勲章を受章し、日本でも旭日小綬章が授与されている[4]。公称身長は、167.5 cm(5フィート6インチ)。ARIA殿堂顕彰[5]。
代表曲に「愛の告白」「そよ風の誘惑」「愛のデュエット」「マジック」「ザナドゥ」「フィジカル」「ハート・アタック」「運命のいたずら」「グレイス&グラティチュード」、日本では「ジョリーン」「カントリー・ロード」などが有名。
「ビルボードの選ぶ歴史上最も偉大なHot 100女性アーティスト」において7位[6]。
生涯[編集]
生い立ちとデビュー[編集]
イングランド・ケンブリッジ生まれ。母方の祖父はアインシュタインとも親しかったドイツ出身のユダヤ系でノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (Max Born)、ウェールズ人の父親はケンブリッジ大学のドイツ語教授であった。母方の曾祖母の父は法学者のルドルフ・フォン・イェーリングである。5歳の時に父がオーストラリアの大学に移り、家族とともに移住。14歳の頃から学友とバンドを組んで、バーなどで歌い始めた。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。
1971-1979: アメリカでの成功と『グリース』[編集]
1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー「イフ・ノット・フォー・ユー (If Not For You)」で再デビュー、この曲がヒットしたのをきっかけにスターの階段をのぼり、可愛らしいルックスとカントリー系の素朴な路線で着実に人気を集めた。1973年頃よりAOR、コンテンポラリー色を強め、1974年のシングル「愛の告白 (I Honestly Love You)」が全米1位を獲得、グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀女性歌唱賞に輝いた。同じく1974年にはユーロビジョン・ソング・コンテストに英国代表として出場し、「Long Live Love」を歌唱して4位を記録した。同年にはコンピレーション盤『イフ・ユー・ラヴ・ミー・レット・ミー・ノウ』が全米のアルバムチャートBillboard 200で初の首位を獲得。1975年にアメリカに移住した後も2曲目の全米No.1「そよ風の誘惑 (Have You Never Been Mellow)」などのヒットが生まれた。
歌手としての人気が一度落ち着いていた1978年に女優としてミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演。興行成績は大成功を収め、サントラからも「愛のデュエット」、アカデミー賞歌曲賞候補となった「愛すれど悲し」、「想い出のサマー・ナイツ」が連続ヒットし、押しも押されもせぬ世界的なスターとなる。
同年にはカントリーからポップ・ロックへ路線転換して発表されたアルバム『さよならは一度だけ』が全米7位のヒットとなり、アルバムからのリード・シングル「愛は魔術師」も全米3位を記録するなど歌手としても新たな局面を迎える。
1980-1989: 「フィジカル」の大ヒット、1回目の結婚と出産[編集]
1980年1980年の映画『ザナドゥ』に主演。興行成績は不発に終わるも、サントラ曲「マジック」、ELOとの「ザナドゥ」、クリフ・リチャードとのデュエット「恋の予感」(日本ではシングルにならず「春風の誘惑 (Suspended in Time)」がシングル・カット)がヒット。アンディ・ギブとの「愛は微笑みの中に」など、AOR系のデュエット曲も発表。1981年にはロック色を強め、アップテンポなディスコ調の「フィジカル」をリリース。全米でビルボード10週連続1位、キャッシュボックス8週連続1位、1982年度の年間チャート1位という爆発的ヒットを記録(エアプレイ中心のラジオ&レコーズでは「フィジカル」は1位にならず、ビルボード、キャッシュボックスで「フィジカル」に抑えられ2位どまりだったフォリナーの「ガール・ライク・ユー」が逆に1位を独走していた)。最終的にこの曲はビルボードにおいて、1980年代の全米チャートで最もヒットした曲となった。当時のフィットネスブームを意識し、ミュージックビデオではレオタード姿でエアロビクスを踊るという強烈なイメージ戦略があたり、オリビアのセールスはこの頃にピークを迎えた。しかし、その意味深な歌詞のせいもあって、保守色の強い州南部などの一部の放送局では、この曲の放送を自粛する動きも見られた。
「フィジカル」を収録したアルバム『虹色の扉』では収録曲全曲にミュージック・ビデオが作られるなど当時としては画期的な試みが行われた。
1982年には「フィジカル・ツアー」を開催して盛況を得るが、その後15年余りコンサート・ツアー活動を行わなくなる。

1983年にトラボルタと再度共演した『セカンド・チャンス』のサントラ曲「運命のいたずら」、「ディスペレイト・タイムス」といったヒットを挟み、1985年のシングル「ソウル・キッス」がミディアム・ヒットに終わってセールスが一段落すると、アメリカ人の俳優であるマット・ラッタンジーとの結婚生活に入り、音楽界と若干の距離を置く。
1986年には娘クロエ・ラッタンジーを出産し、その後は環境保護活動などに取り組みはじめ、ユニセフ親善大使もつとめた。
1990-2000: 乳がんとの闘い、コンサート活動への復帰[編集]

1994年には全曲の作詞作曲を手掛けた『ガイア〜新たなる旅立ち〜』を発表して音楽界に復帰。アルバムはオーストラリアで7位を記録するなどヒット。1995年にマット・ラッタンジーと離婚。
1998年にはジョン・ファーナム、アンソニー・ウォーロウと「メイン・イベント」を開催、その模様を収録したライヴCDはオーストラリアのアルバムチャートで1位を記録。
2001-2012: 新たな挑戦と再婚[編集]
2001年にはこれまでのイメージとは打って変わった役柄に挑戦した主演映画『ソーディッド・ライヴス』が公開、撮影は1999年に行われており、オリビアは蓮っ葉なレズビアンの女性を演じた。また髪型もベリーショートにしている。2008年にはテレビシリーズとして続編が製作された[8]。2002年、同郷オーストラリア人歌手とのコラボレートを中心としたアルバム『デュエット・ウィズ・オリビア』を発表、オーストラリアのアルバムチャートでは5位を記録。
同年、オーストラリアレコード産業協会主催のARIAミュージック・アワードで殿堂入り[5]。
2003年には25年ぶりに来日公演を果たし[9]、その後も2006年、2010年、2015年に来日公演を行った。
2004年、全曲女性歌手の曲のカバーのみで構成されたアルバム『インディゴ:ウーマン・オブ・ソング』を発表。
2010年、ホッケーをモチーフとしたカナダ映画『スコア』に主演、トロント国際映画祭にも出展された[10]。
2012年、約35年ぶりに、ジョン・トラボルタと共演したデュエット・アルバム『ディス・クリスマス』をリリース[12]。同年には自身がうつ病との闘病生活を送っている事を告白。
2013-2021: ラスベガス常設公演、がんの転移[編集]
2013年、35年ぶりとなるイギリス公演を開催、チケットは完売した[13]。2014年からラスベガスで常設公演『サマー・ナイツ』をスタート[14]、公演は2016年まで断続的に開催された。
2016年、長年のコラボレーターであるエイミー・スカイ、ニールセン・チャップマンとのコラボレート・アルバム『リヴ・オン』を発表。
2017年、がんが脊髄に転移していると公表[15]。
2018年、自伝"Don't Stop Believin'"を上梓、2022年には日本でも『オリビア・ニュートン・ジョン自伝 信じることをやめないで』の題で発売された。
2021年秋に、日本政府より『日本国の音楽文化の発展及び友好親善に寄与した功』により旭日小綬章が授与された[4]。
ディスコグラフィ[編集]
→詳細は「オリビア・ニュートン=ジョンの作品」を参照
スタジオ・アルバム[編集]
- 『イフ・ノット・フォー・ユー』 - If Not for You (1971年)
- 『オリビア』 - Olivia (1972年)
- 『レット・ミー・ビー・ゼア』 - Let Me Be There (1973年)[19]
- 『とこしえの愛』 - Long Live Love (1974年)
- If You Love Me, Let Me Know (1974年)
- 『そよ風の誘惑』 - Have You Never Been Mellow (1975年)
- 『クリアリー・ラヴ』 - Clearly Love (1975年)
- 『水のなかの妖精』 - Come on Over (1976年)
- 『たそがれの恋』 - Don't Stop Believin' (1976年)
- 『きらめく光のように』 - Making a Good Thing Better (1977年)
- 『さよならは一度だけ』 - Totally Hot (1978年)
- 『虹色の扉』 - Physical (1981年)
- 『麗しの瞳』 - Soul Kiss (1985年)
- 『噂〜うわさ』 - The Rumour (1988年)
- 『美しい星と子供たちに〜ウォーム・アンド・テンダー』 - Warm and Tender (1989年)
- 『ガイア〜新たなる旅立ち〜』 - Gaia: One Woman's Journey (1994年)
- 『バック・ウィズ・ア・ハート〜オリビアより愛を込めて』 - Back with a Heart (1998年)
- 'Tis the Season (2000年) ※with ヴィンス・ギル
- 『デュエット・ウィズ・オリビア』 - (2) (2002年) その他、多数
メッセージの投稿
メッセージ
アルバム



報告