承継
本名:吉法師(きっぽうし)→平朝臣織田上総介平朝臣信長(正式な名前)
戒名:総見院殿贈大相国一品泰巌大居士
墓地:※信長の墓と伝えられるものは、全国に20か所以上あります。それは、「埋葬墓」の他に、髪や爪、分骨といった遺体の一部や遺品等を埋めたお墓や、中に写経を納めるなどして死者を供養・慰霊するための目的で造立されたものなどがあるからです。


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  • 阿弥陀寺:(〒602-0802 京都府京都市上京区鶴山町14) “本墓”と考えています。
  • 大徳寺総見院:豊臣秀吉が織田信長の一周忌に菩提を弔う為に創建したとされています。
  • 大雲院:織田信長、信忠親子の菩提を弔う為に正親町(おうぎまち)天皇の勅命により建てられたとされています。
  • 妙心寺玉鳳院:妙心寺の最古の塔頭(たっちゅう=大きな寺院の敷地内にある小さな寺院)とされる玉鳳院には、信長の重臣・滝川一益(たきがわ かずます)が建てたとされる織田信長と信忠の供養塔があります。
  • 高野山奥之院:供養塔が見つかったのは1970年。死者の極楽往生を願い、弘法大師の御廟があるこの地に建てられたと言われています。
  • 南宋寺本源院(マップ):南宗寺の塔頭である本源院には、織田信長と信忠の供養塔が残されています


織田 信長(おだ のぶなが)は、日本戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名戦国の三英傑の一人

尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀嫡男家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦い今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権)を確立して天下人となった戦国時代を代表する英雄である。しかし、天正10年6月2日1582年6月21日)、家臣・明智光秀謀反を起こされ、本能寺自害した。

信長結婚(正室)

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国戦国大名斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた

永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した[注釈 5]。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする[注釈 5]。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る[注釈 5]。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い
天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した[注釈 5]天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀別所長治荒木村重らが次々と信長に叛いた。

天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。

天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣関白征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男信孝に出兵の準備をさせている。そして、信長自身も毛利輝元毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた[注釈 5]。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)

織田信長を主題とした作品

小説

  • 『信長』坂口安吾、筑摩書房、1953年。宝島社〈宝島社文庫〉、2008年。
  • 「桶狭間」(『異域の人』収録)井上靖、講談社、1954年。
  • 『織田信長』山岡荘八、講談社〈山岡荘八歴史文庫〉、1961年。
  • 『炎の柱 織田信長〈上・下〉』大仏次郎、徳間書店〈徳間文庫〉、1962年。学陽書房、2006年。
  • 国盗り物語司馬遼太郎、1967年。
  • 『寸法武者 八切意外史5』八切止夫、講談社、1967年。作品社、2002年。
  • 『安土往還記』辻邦生、筑摩書房1968年。新潮社〈新潮文庫〉、2005年。
  • 『天目山の雲』井上靖、角川書店〈角川文庫〉1975年。
  • 下天は夢か津本陽、1989年。
  • 『決戦の時』遠藤周作、講談社、〈講談社文庫〉、1991年。
  • 『織田信長〈全六巻〉』鷲尾雨工、富士見書房〈時代小説文庫〉、1991年。
  • 『鬼と人と〈上・下〉』堺屋太一、PHP研究所〈PHP文庫〉、1993年。
  • 『炎の人 信長〈1 - 6〉』桑原譲太郎、徳間書店、1995年、1996年。電子書籍館 桑原譲太郎の世界、2009年。
  • 「峻烈」(『忠直卿御座船』収録)安部龍太郎、講談社〈講談社文庫〉、2001年。
  • 信長燃ゆ〈上・下〉』安部龍太郎、新潮社〈新潮文庫〉、2004年。
  • 信長の棺加藤廣、2005年。
  • 『蒼き信長』安部龍太郎新潮社〈新潮文庫〉、2012年。
  • 『信長暁の魔王』天野純希集英社〈集英社文庫〉、2013年。
  • 『うつけ世に立つ 岐阜信長譜』早見俊徳間書店、2016年。
  • 『信長の原理』垣根涼介角川書店、2018年。
  • 『信長の血涙』杉山大二郎幻冬舎〈時代小説文庫〉、2021年。

映画

テレビドラマも多数あり
            Statue of Nōhime.jpg  濃姫之像(清洲城模擬天守横)


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どんな人だったか?

東京霊園(管理者)さんが2023年3月10日に投稿
  1. 酒は飲まず、食事は控えめにした。
  2. 自邸において極めて清潔だった。
  3. 極度に戦を好み、軍事的鍛錬にいそしみ、名誉に富み、正義において厳格だった。
  4. とても性急で激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  5. 対談で長引くことやだらだらした前置きを嫌った。
  6. 自分への侮辱は許さず、懲罰せずにはいられなかった。
  7. 家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず、一同から畏敬されていた。
  8. 神や仏のすべて礼拝や尊崇、占いや迷信的慣習を軽蔑した。
  9. 将軍や大名など、日本のすべての王候(=土地や人民を支配する有力者)を軽蔑した。
  10. 王候に対してさえも尊大(=つまりは上から目線)だった。
(イエズス会宣教師・ルイスフロイス談)

信長の人間性を表す言葉

東京霊園(管理者)さんが2023年3月10日に投稿
「攻撃を一点に集約せよ、無駄なことはするな」...織田信長
※何か目標を達成したい場合は、あれこれと手を出すのではなく、正しい情報と効率性に基づいて、ここぞと思うことに専念することが肝心であるとのこと

「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」...織田信長
※人間の一生の短さを謳った敦盛を好んで舞ったように、人が一生のうちに達成できることは数少なく、だからこそ全力で生きること