承継
軌跡

生い立ち

  • 1902年に東京で生まれる。 10歳で父が他界し、家の当主として男爵となる。1915年(13歳)4月、外交官であった父の遺志を継ぎ立一中 (現・日比谷高校)に入学、 同期には小林秀雄、のちに玉音放送を起草した迫水久らがいた。
  • 1921年 (19歳)、新設の陸軍士官学校予科へ入校希望の花形である兵を選択。 卒業後は士官候補生として世田谷騎兵第1連隊に配属、のち陸軍士官学校(本科)に入校。


西竹一と愛馬ウラヌスとのオリンピック

  • 1930年 (28) ロサンゼルスオリンピックの出場の為、半年間の休養を取り、アメリカと欧州へ向かった。 欧州へ向かう船内で米国の映画スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ビックフォード夫妻と親交を持つ。 同年3月、イタリアで終生の友となる馬ウラヌスと出会う。 6,500 伊リラ(当時の換算レートで千円※今の200万円?)で購入。 欧州各地の馬術大会に参加し、好成績を残す。
  • 1932年(30歳)、 習志野騎兵第16隊附陸軍兵中尉として参加したロサンゼルスオリンピック、大障害飛越競技にて金メダリストとなる。 アジア諸国として初めてオリンピック馬術競技でメダルを獲得した。
  • 当時、人種差別で排斥されていた日系アメリカ人は大喜びし、上流階級の名士が集まる社交界では「バロン西」と呼ばれ、ロサンゼルス市では名誉市民になった。


硫黄島での戦い

  • 1944年 (42歳) 3月、戦車第26 連隊の隊長を拝命、満州国北部防衛の任に就いた。 当初は「サイパンの戦い」に参戦する予定だっ たが、現地守備隊が早々と玉砕したため6月20日に硫黄島への動員が下された。
  • 戦車第26連隊は硫黄島へ向かう途中、 父島沖で米海軍潜水艦の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船「日秀丸」は沈没した。 8月、戦車補充のため一旦東京に戻り、世田谷の馬事公苑 (ばじこうえん) で余生を過していたウラヌスに会いに行くと、ウラヌスは西の足音 を聞いて狂喜して首を摺り寄せたという。西「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」。
  • 1945年、硫黄島守備隊として小笠原兵団直轄の戦車第 26 連隊 (九七式中戦車)の指揮を執ることとなった。 硫黄島においても愛用のを手にエルメス製の乗馬長靴で歩き回っていたという。車第26 連隊は米軍のM4 中戦車と撃滅戦を展開。
  • 英語に堪能な西は、負傷したアメリカ兵を尋問したのち、乏しい医薬品でできるだけの手当てをした。 その際、米兵のポケットに母親からの手紙があったという。
  • 米軍にはロサンゼルス五輪の英雄を知る者も多かったため、「バロン西、我々はあなたを失いたくない。 出てきなさい」と日本語で何度 も投降を呼びかけたが、西は無視した。
  • 3月17日に音信を絶ち、3月21日の明け方、兵団司令部への移動のため敵中突破中に掃射を受けその場で戦死したとも、副官と共 に拳銃自決したともいわれる。享年42硫黄島の東海岸には 「西大佐戦死の碑」がある。
  • 戦死により陸軍大佐に進級。 墓所は青山霊園。 死の一週間後の3月末、陸軍獣医学校に居たウラヌスも死亡している。 1990年、西が死ぬまで離さなかったウラヌスのたてがみ)がアメリカで発見され、軍馬頭のある北海道中川郡本別町の歴史民 俗資料館に収められた。
※硫黄島の司令官、栗林忠道陸軍中将 (最終階級・陸軍大将)も騎兵出身だった。