承継
小説家 戦後民主主義文字のリーダーとして活躍。 中学から小説を書きはじめ、1916年、17歳で人道主義的な小説「貧し 人々の天才少女と呼ばれる。その後、中途退学してアメリカに、コロンビア大学で知りあった15歳年長の言語学者・える荒木茂と結婚したが5年後に離婚。1928年(29歳)、ロシア文学者・湯浅芳子と共同生活をおくりながら、破綻した結婚生活を長編小 説『伸子』にまとめた。

  • 誕生: 中條 ユリ (父は中條精一郎ー慶應義塾大学旧図書館を手掛けた建築家)
  • 墓地: 青山霊園 東京都港区南青山2丁目32–2

  • 1927年(28歳)から湯浅芳子と3年間ソ連に留学、プロレタリア文学運動に参加し、1931年に32歳で日本 共産党に入党。翌年、9歳年下の宮本顕治 (1908-2007)と結婚した。1932年から終戦までに3度検挙されるなど、夫と共に投獄、 執筆禁止などを繰り返しながらねばりづよく文学活動を続け、『風知草』(1946)、『播州平野』(1947)、『道標』(1950)などの小説を のこした。
  • 1951年、敗血症により51歳で急逝。 没後7年、夫の顕治は1958年に共産党書記長に選出された(のち1970年に初代 委員長に選出され書記長のポストを廃止)。

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大切な方の思いで

信念に駆け抜けた人生

  • 兵庫県が舞台の作品に『播州平野』がある。
  • 百合子は、十七歳のとき「貧しき人々の群」で文壇に鮮烈にデビューし、女性の自立を追求した作品「伸子」を発表した後、1928年新しい発展をもとめてソ連、ヨーロッパで生活。30年帰国するとまもなく、プロレタリア文学運動に参加し、31年10月には日本共産党に入党。侵略戦争と治安維持法が猛威をふるった暗黒の時代に「一九三二年の春」「刻々」「乳房」などを書きました。
  • その後も、たびかさなる検挙、投獄、執筆禁止の迫害に抗して時局を批判する創作や発言をつづけ、また、夫宮本顕治の12年にわたる不屈の獄中闘争をささえました。そのたたかいは、野蛮な権力によっても打ちひしがれることのなかった理性と良心のあかしとなり、戦後の百合子の飛躍、発展を準備するものともなりました。
  • 百合子は、戦後せきを切ったように執筆活動、発言を開始。民主主義文学運動・婦人運動の先頭に立ちました。そのなかで「播州平野」「風知草」「二つの庭」「道標」などの小説でだれよりも早く新しい世界と人々を描き、また女性の解放、平和のためのたたかいに献身しつづけました。
  • しかし、文学的にも人生の上でもこれからというとき、1951年1月21日、五十一歳で急逝しました。
  • 停滞ということを知らない人でした。戦前の半封建的な制度のもとでの女性にたいする抑圧に苦しみ、侵略戦争のもとでの野蛮な弾圧を受けながらも、正面からこれらに立ち向かい、人間として、作家として、思想家として絶えず成長し、発展していきました。彼女の生涯と文学 ― この新しい全集に収められた小説、評論、感想、日記、手紙などのすべては、いつも私たちを励まし“いかに生きるべきか”“何をなすべきか”を考えさせてくれます
想いで

「文字の匂い」の起源

墓マイラー趣味クラブさんが2023年8月26日に投稿
  1. 宮本百合子は子どもの頃から、夏目漱石のような文豪の作品に深く親しんでいたそうです。しかし、なかでも彼女の記憶に残っているエピソードとして、子どものときに体験した一つの出来事があります。それは、祖母から贈られた手紙の臭いについてのことです。
  2. 一度、宮本百合子が祖母宅から手紙を受け取ったとき、その手紙には何か特別な匂いがしました。それは、まるで祖母宅の匂いそのもので、その匂いは彼女の五感を刺激し、心地よさとともにいつまでも記憶に残りました。その経験から、彼女は「文字には独自の匂いがある」という感覚を持つようになりました。
  3. そして、それが後の文学活動に大きく影響を与え、彼女が描く文字一文字ごとに生命を吹き込む原動力となりました。彼女の作品は、言葉の選び方や表現に細部までこだわった、まるで「生きている」ような言葉達で溢れています。
  4. このエピソードは、宮本百合子がどのようにして「文字に命を吹き込む」才能を持つようになったのか、そのきっかけの一つを示していると言えるでしょう。