承継
軌跡

生誕

明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われており、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

勢力拡大

享禄2年(1529年)11月、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。

天文4年(1535年)には、隣国備後多賀山通続を攻め、降伏させた。

厳島の戦い

大内軍30,000人以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000から5,000人であった。正面から戦えば勝算はない。さらに毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

元就の最期

吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り[注釈 10]、翌6月14日巳の刻(午前10時頃)に死去[33]。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75(満73歳)