承継
この追悼サイトは、 金子 みすゞさまのために作成されました。

享年26歳 、誕生日 1903年4月11日、命日 1930年3月10日
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金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、1903年明治36年〉4月11日 - 1930年昭和5年〉3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本童謡詩人26歳で夭逝するまで約500編の詩を遺した[1]没後半世紀はほぼ忘却されていたが、1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進んだ[1]

西條八十に激賞されたが早逝、幻の童謡詩人とされていた。遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られた。代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。

1923年(大正12年)、「金子みすゞ」というペンネームで童謡を書き始め、雑誌『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』 に投稿した。この年、これら 4 誌全ての 9 月号にみすゞの投稿した 5 編の作品が一斉に掲載された。以降みすゞは次々と作品を投稿。雑誌『童話』を中心に 90 編 の作品を発表する。『童話』においては、推薦 16 編、入選 24 編、佳作 2 編の計 42 編が 掲載された。最後にみすゞが投稿し掲載された作品は『愛誦』1929年(昭和4年)5月号の「夕顔」である。1923年(大正12年)『婦人画報』9月号に掲載された「おとむらひ」は、翌年『現代抒情小曲選集』(西條八十編)におさめられた。1926年(大正15年)には、みすゞは「童謡詩人会」への入会をみとめられ、童謡詩人会編「日本童謡集」1926年版に「お魚」と「大漁」の詩が載った。童謡詩人会の会員は西條八十泉鏡花北原白秋島崎藤村野口雨情三木露風若山牧水など。女性では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。

1926年(大正15年)に叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格で、酒は飲めないが女癖のある芝居好きの宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからか、みすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。

1927年(昭和2年)西條八十編『日本童謡集(上級用)小学生全集第48巻』および1928年(昭和3年)光風館編輯所 著『作文新編 巻1』に「お魚」が収載される。1929年(昭和4年)東亜学芸協会 編『全日本詩集』には「繭とお墓」(『愛誦』1927年(昭和2年)1月号が初出)が載る。1929年(昭和4年)、みすゞは「美しい町」「空のかあさま」「さみしい王女」と 題した3冊の童謡集を二組制作し西條八十と正祐(当時上山雅輔の名前で文藝春秋社の編集者をしていた)にそれぞれ託した。(現存するものは同年秋に正祐に送られたもので1925年と1926年の博文館のポケットダイアリーの書店用見本に書かれている。1冊目の「美しい町」と2冊目の「空のかあさま」は清書。3冊目の「さみしい王女」の詩には校正した跡がある)

1927年に夫からうつされた淋病を発病。1928年には夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。こうしたことなどから1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。同年3月10日、みすゞは服毒自殺を遂げ[注 2]享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じた。上山雅輔は回想録「年記」に「芥川龍之介の自殺が決定的な要因となった」と書いている。 遺書を3通残しており、そのうちの1通は元夫へ向けた「あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら,それは仕方ありません。でも,あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから,母ミチにあずけてほしいのです」という娘の養育を母ミチに託すよう求めるものだった[3]法名は釈妙春信尼[4]

作品
[編集]代表作には「私と小鳥と鈴と」や「大漁」 (初出:『童話』1924年(大正13年)年 4 月号) などがある。

仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し「鯨法会」という作品を書いている[要出典]。自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点ともいわれ[要出典]、「お魚」「大漁」などに繋がっている。

「私と小鳥と鈴と」

   私が両手をひろげても、

   お空はちっとも飛べないが

   飛べる小鳥は私のように、

   地面を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、

   きれいな音は出ないけど、

   あの鳴る鈴は私のように

   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、

   みんなちがって、みんないい。


金子みすゞの詩は長らく忘れられていた。童謡詩人の矢崎節夫が大学1年生だった1966年、岩波文庫『日本童謡集』所収のうちの唯一の金子みすゞ作品「大漁」を読んで感動し、以後16年、作品探しなど金子みすゞの足跡を探した[1]。みすゞの実弟と巡り会って保管されていた遺稿集3冊およびみすゞの写真4葉(下関市黒川写真館にて1923年に20歳の時に撮影した写真、姉弟で撮影した写真、結婚記念写真、下関市三好写真館にて1930年3月9日に撮影した写真)等を委ねられ、1984年に『金子みすゞ全集』(JULA出版局)として刊行した[1]

1987年には、いち早く上山雅輔により劇団若草で、みすゞの朗読とマイム(無言劇)の舞台が企画上演されており、下関、山口、長門各市でも地元仙崎小学校の子どもたちの応援出演が加わった公演が行われた。

東京大学の入試問題(1985年国語第二問)には「積もった雪」「大漁」が採用されている。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されることも多い[要検証 – ノート]。

また、このことをきっかけに地元長門でもみすゞの再評価が行われることとなり[要検証 – ノート]、1983年6月に「長門みすゞ(の)会」が発足。1986年年には「金子みすゞ顕彰会」が設立された(多くのみすゞ会のメンバーはこの顕彰会にも属し、顕彰会が出来た後もみすゞ会の活動を継続した)。長門市駅南のショッピングセンター「ウェーブ」内に1992年10月に開設された初代の「金子みすゞ記念館」は金子みすゞ顕彰会により管理されていた。2006年にはNPO法人化され「特定非営利活動法人金子みすゞ顕彰会」となっている。生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。矢崎は館長に就任した[1]

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    金子みすゞ記念館  山口県長門市仙崎1308番地 電話0837-26-5155

※注:このサイトは、金子みすゞに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝
このメッセージは、 2024年4月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
つまらぬ夫のために享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じたみすゞを、心から弔い天国から詩の周波を届けてくださるように祈ります。
世の男性たちは「みすゞ」のような素晴らしい女性たちを不幸にしない事を誓いましょう!         合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年4月2日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
つまらぬ夫のために享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じたみすゞを、心から弔い天国から詩の周波を届けてくださるように祈ります。
世の男性たちは「みすゞ」のような素晴らしい女性たちを不幸にしない事を誓いましょう!         合掌
大切な方の思いで

(生い立ち)

山口県大津郡仙崎村(現:長門市仙崎)の生まれ。郡立深川高等女学校(現:山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関書店「上山文英堂」の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[注 1]を遂げる。文藝春秋社の編集者や喜劇王・古川ロッパの脚本家などとして活躍し、子役の名門であった劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。