承継
この追悼サイトは、 南方 熊楠(博物学者・生物学者・民俗学者)さまのために作成されました。

享年74歳 、誕生日 1867年5月18日、命日 1941年12月29日
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南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日慶応3年4月15日) - 1941年昭和16年)12月29日)は、日本博物学者生物学者民俗学者

生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ藻類コケシダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた[1]。そうした調査に基づいて生態学ecology)を早くから日本に導入した。

1929年には昭和天皇進講し、粘菌標品110種類を進献している[2]

フランス語イタリア語ドイツ語ラテン語英語スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した[3]。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している[4]

現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。

熊楠の学問は博物学民俗学人類学植物学生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。

生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。

帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい70種を発見し、また自宅のの木では新しいとなった粘菌を発見する。

<米・英に留学>
心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった[9]。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている[8]。12月22日に横浜港を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する[8]

1887年(明治20年)1月8日に米国サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月にミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)入学。
1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。
1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。
1903年(明治36年)、論文『燕石』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する[8]

1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める[8]

1906年(明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる[8]。7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの[注釈 4]

熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇の博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。1926年2月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は37属90点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに11月10日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた[25]

1929年6月1日午前8時、御召艦長門が田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は5時30分に長門に畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける[25]

著作(編者版)[編集]
  • 『南方熊楠随筆集』益田勝実編、筑摩書房〈筑摩叢書〉 1968年/ちくま学芸文庫 1994年
  • 『十二支考』全3巻 飯倉照平校訂、平凡社東洋文庫 1972〜73年、ワイド版2006年
  • 『南方熊楠文集』全2巻 岩村忍編、平凡社東洋文庫 1979年、ワイド版2006年
  • 『熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集』飯倉照平・鶴見和子・長谷川興蔵編、八坂書房 1991年
  • 『南方熊楠コレクション』全5巻 中沢新一編・解説、河出書房新社〈河出文庫〉 1991〜92年、新装版2015年I 南方マンダラ、II 南方民俗学、III 浄のセクソロジー、IV 動と不動のコスモロジー、V 森の思想
  • 『十二支考』(上・下)宮田登解説、岩波文庫 1994年、ワイド版2003年
  • 『南方熊楠 珍事評論』長谷川興蔵・武内善信校訂、平凡社 1995年
  • 『南方熊楠 履歴書 ほか』〈人間の記録84〉日本図書センター 1999年
臨海湾を見下ろす森にある記念館

南方熊楠記念館新館 - 藤森泰司アトリエ
   南方熊楠記念館 和歌山県西牟婁郡白浜町3601-1 0739-42-2872

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    南方熊楠の墓 高山寺 和歌山県田辺市稲成町392 
     熊楠は彼が愛した田辺の町と神島を見下ろす高山寺のお墓に眠っています。
「南方熊楠墓」の字は、弟子の雑賀貞次郎が熊楠の自筆文字のなかから選んだもの。

※注:このサイトは、南方熊楠に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年10月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
熊楠の研究は、博物学・民俗学・人類学・植物学・生態学など様々な分野に及んだ膨大なものであり、「ネイチャー」誌に51本の論文が掲載される世界的にも有名な学者です。      合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2023年10月28日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
熊楠の研究は、博物学・民俗学・人類学・植物学・生態学など様々な分野に及んだ膨大なものであり、「ネイチャー」誌に51本の論文が掲載される世界的にも有名な学者です。      合掌
大切な方の思いで

(生い立ち)

慶応3年(1867年4月15日和歌山城城下町の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる[注釈 1]。南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた[2]。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた[2]。他にも漢学塾心学塾にも通っている[2][8]

(少年時代)

1873年(明治6年)、雄おの小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学[8]

1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『和漢三才図会』を初めて見る。数え10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった[8]

1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校[注釈 2]に入学。

しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため[2]、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う[8]。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた[2]

1879年(明治12年)、和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学[8

(上京)

1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し[6]標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている[8]

1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之寺石正路芳賀矢一山田美妙本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業していた。