承継
報告

(エピソード)

イーライフ宇崎勝さんが2024年3月22日に投稿
上京後の住まいは世田谷区用賀2丁目にあった(現在もそこに長谷川家がある)。毬子の夫が戦死した後、1961年に洋子が夫を亡くしたことをきっかけに、洋子家族が暮らす離れを母屋まで移動して連結した[68]。それ以降は町子・母・毬子・洋子・洋子の娘2人(隆子と彩子〈さいこ〉)・家政婦という計7人の女性が一つ屋根で生活した[1]

東京の男性と結婚したいと考えていた時期、好みをいくつか挙げており[69]、容姿にはこだわらなかったが[70]、生涯独身だった。洋子が2008年に出版した回想録『サザエさんの東京物語』によれば、何度かお見合いをしており、一度は婚約までいったが後日破棄した[1]。その理由について、夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、と妹に述べている[42]。一時期は子供が欲しかったが、姪ができて母性本能が満たされたという

(エピソード)

イーライフ宇崎勝さんが2024年3月22日に投稿
当初は聖公会クリスチャン。父の病気を機に家族で入信した。母のような熱心な信徒ではなかった町子が、日曜日に里帰りする口実として「礼拝したい」と言い出したところ、田河水泡夫妻に付き添われて隣のメソジスト教会に通う羽目となった。のちに、付き添った夫妻の方が熱心なクリスチャンになった[64]

戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[65]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と母が交友関係を持つようになった[注 7]。矢内原から海外探訪の誘いがあった時には畏敬のあまり反射的に断ってしまい、啓発の機会を逸したことを後に悔やんだ[66]。矢内原没後の1970年の対談では自らの宗派を「無教会派」と答えている[67]

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