承継
この想いでサイトは、私たちの尊敬する偉大な人  井深 大(ソニー創業者)さんを記念して作成されました。

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本名:井深大(いぶか まさ)
墓地多磨霊園多磨霊園(〒183-0002 東京都府中市)、日本


日本弁理士、電子技術者、実業家。位階は正三位

日本初・世界初の製品世に送り出す井深大さんは発明の才に恵まれていました。大学在学中に「動くネオン」を開発し、パリ万博で優秀発明賞を受賞。 戦時中に盛田昭夫さんと出会ったのが運命の分かれ目になります。1946年に盛田さんと「東京通信工業」(現ソニー)を設立、50年には社長になってソニーをけん引します。テープレコーダー、トランジスタラジオを開発し、「ウォークマン」(携帯用カセットテープ・プレーヤー)を大ヒットさせました。 日本初、世界初の製品を多く世に送り出し、戦後の日本経済の隆盛を象徴しました。数十年先の未来を考え、そこから現在を見渡す優れた経営者でした。


盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。

生涯[編集]栃木県上都賀郡日光町(のちの日光市)に生まれる。祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる[注釈 1]。日露間で千島樺太交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している[1]。2歳の時、青銅技師で水力発電所建設技師であった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父のもとに引き取られる[2]

母さわ[3]と共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現在の安城市立安城中部小学校)卒業。のちに再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居。兵庫県立第一神戸中学校(のちの兵庫県立神戸高等学校)、第一早稲田高等学院早稲田大学理工学部卒業。学生時代から奇抜な発明で有名であった。早稲田大学時代にキリスト教徒の恩師山本忠興の影響で日本基督教会(のちの日本基督教団富士見町教会に通うようになり、洗礼を受けてキリスト教徒になる[4]。卒業論文は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田昭夫の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査役、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。

以来、新しい独自技術の開発に挑戦し、一般消費者の生活を豊かに便利にする新商品の提供を経営方針に活動を展開。そして、多くの日本初、世界初という革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長していった。
東京通信工業(後のソニー)創業後の略歴[編集]
  • 1946年(昭和21年):東京通信工業(後のソニー)株式会社を創業し、代表取締役専務に就任
  • 1950年(昭和25年):東京通信工業(後のソニー)代表取締役社長に就任
  • 1951年(昭和26年):テープレコーダーを発売
  • 1955年(昭和30年):トランジスタラジオを発売
  • 1958年(昭和33年):それまで商標名としていたSONYを商号に採用し、ソニー株式会社に商号変更
  • 1961年(昭和36年):トランジスタテレビを発売
  • 1962年(昭和37年):日本映画・テレビ録音協会初代名誉会員に選出
  • 1964年(昭和39年):家庭用ビデオ・テープレコーダーを発売
  • 1968年(昭和43年):日本テキサス・インスツルメンツ株式会社 初代 代表取締役社長に就任
  • 1971年(昭和46年):ソニー代表取締役会長に就任
  • 1972年(昭和47年):国鉄理事に就任
  • 1976年(昭和51年):ソニー取締役名誉会長に就任、発明協会会長に就任
  • 1977年(昭和52年):国鉄理事を退任、井深賞設立
  • 1979年(昭和54年):日本オーディオ協会会長に就任
  • 1987年(昭和62年):鉄道総合技術研究所会長に就任
  • 1990年(平成2年):ソニーファウンダー(創業者)・名誉会長に就任
  • 1994年(平成6年):ソニーファウンダー(創業者)・最高相談役に就任
主な著作[編集]
  • 『幼稚園では遅すぎる』 (1971年)
  • 『0歳からの母親作戦』 (1979年)
  • 『あと半分の教育』 (1985年)
  • 『わが友本田宗一郎』 (1991年)
  • 『胎児から』 (1992年)
顕彰[編集]受賞[編集]栄典[編集]井深大の名言
 〇 育児くらい崇高で素晴らしい仕事はない。
 〇 立派な人間になるための一つの条件は、自分が心から尊敬できる人を持つこと
 〇 アイデアが重要なのではない。 一つのアイデアをどうやって具体的にしていくかが
      重要である。
 〇 中小企業の社長になったつもりで考えろ、彼らは自分が全責任を持ってするから
      創意工夫がある。
 〇 ものをつくる苦労を知っている人は、失敗を人のせいにしない。
 〇 ヒット商品は時代に迎合しない新しい発想から生まれる。
 〇 世界平和を真剣に希求するならば、これからの世代をになう幼児たちの教育にもっと
    重点をおき、むしろ、それに賭けるくらいの心がけが必要なのではないでしょうか
 〇 トップに立つ人は、泥をかぶる覚悟で仕事に立ち向かえ。 それでだめだったら潔く
   シャッポを脱いで謝る。ただ責任というだけでけじめをつけようとするのは間違いだ
 〇 「物」だけで「もの」を考える時代は終わった。 これからは「心」と「意識」を
    考えたものづくりの時代だ。
 〇 商売にならないようなものを商売にしていくということが、私どもの進歩というか
    ブレイクスルーである
 〇 一見無駄のように思える研究、バカバカしいようなアイデアが創造の命だ。
    この「無駄=不合理」を解さない人はほしくない。
 〇 多くの人に利用されてこそ技術である。  
             etc.

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         井深大記念館   栃木県鹿沼市武子1566

  • ※注:このサイトは、井深大に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

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