若くして亡くなったのが、いついつまでも惜しまれます。
小学3年のとき、テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したが、子役願望は母親に猛反対されかなわず[5]、17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を見て衝撃を受け、ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すようになった。
1977年から8年間、山口銀行の広告として起用された。同年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、芸名を夏目雅子へと改名する。「夏目」の芸名は、クッキーフェイスのCMが夏をイメージするものだったことによる[8]。また、ティナ・チャールズ(英語版)が歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリースし、歌手としてデビューした。
1978年、『西遊記』で三蔵法師役を演じ、人気を得る。同じ年には毎日放送の横溝正史シリーズ『悪魔の手毬唄』で準主役。ドラマが好評で夏目の人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、P&M事務所[注 4] から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した[11]。以降は女優業が中心となる。
1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。ブルーリボン賞を受賞したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。
1984年、作家の伊集院静と結婚した[注 6]。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第10位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優8位となっている[13]。
白血病から死去
夏目雅子ひまわり基金の設立
闘病生活では、抗がん剤の副作用による脱毛に悩み、精神的苦痛を味わった。1回目、2回目の化学療法で、脱毛を恐れて副作用の弱い薬を選び、積極的な治療を行わなかったことが、死につながったとの母の後悔から、癌患者の闘病生活及び寛解後の社会復帰支援のため、彼女の遺産を基に癌患者へ無料でかつらを貸し出す基金活動『夏目雅子ひまわり基金』が、母を代表として1993年12月に設立された。現在は兄・小達一雄が理事長を務めている。
出典:フリー百科事典「ウイキペディア(wikipedia)」
小学3年のとき、テレビドラマ「チャコちゃんハーイ!」を見て女優を志したが、子役願望は母親に猛反対されかなわず[5]、17歳のときにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」を見て衝撃を受け、ソフィア・ローレンに憧れ本格的に女優を目指すようになった。
1977年から8年間、山口銀行の広告として起用された。同年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールとなり、「クッキーフェイス」のCMで注目を集め、芸名を夏目雅子へと改名する。「夏目」の芸名は、クッキーフェイスのCMが夏をイメージするものだったことによる[8]。また、ティナ・チャールズ(英語版)が歌う同CMの使用楽曲「Oh!クッキーフェイス」を自ら日本語でカバーし、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりシングルレコードをリリースし、歌手としてデビューした。
1978年、『西遊記』で三蔵法師役を演じ、人気を得る。同じ年には毎日放送の横溝正史シリーズ『悪魔の手毬唄』で準主役。ドラマが好評で夏目の人気が高まり、バラエティー番組などのタレントとしての出演が増えていたが、「本格的に女優を目指したい」と本人が直訴して、P&M事務所[注 4] から、文学座とつながりの深い其田事務所に移籍した[11]。以降は女優業が中心となる。
1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。この映画では、当初彼女のヌードシーンはスタントを立てる予定であったが、「他の出演者の女優さんが何人か脱いでいるのに、自分だけ脱がないのはおかしい。私も脱いで演技します」と本人が希望した。ブルーリボン賞を受賞したが、授賞式では「これからもお嬢さん芸でがんばりたいと思います」とスピーチした。
1984年、作家の伊集院静と結婚した[注 6]。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第10位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優8位となっている[13]。
白血病から死去
夏目雅子ひまわり基金の設立
闘病生活では、抗がん剤の副作用による脱毛に悩み、精神的苦痛を味わった。1回目、2回目の化学療法で、脱毛を恐れて副作用の弱い薬を選び、積極的な治療を行わなかったことが、死につながったとの母の後悔から、癌患者の闘病生活及び寛解後の社会復帰支援のため、彼女の遺産を基に癌患者へ無料でかつらを貸し出す基金活動『夏目雅子ひまわり基金』が、母を代表として1993年12月に設立された。現在は兄・小達一雄が理事長を務めている。
出典:フリー百科事典「ウイキペディア(wikipedia)」
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