承継
この追悼サイトは、 中田 正子(日本初の女性弁護士の一人)さまのために作成されました。

享年91歳 、誕生日 1910年12月1日、命日 2002年10月15日
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中田 正子(なかた まさこ、明治43年(1910年12月1日[1] - 平成14年(2002年10月15日)は、日本弁護士。日本初の女性弁護士の一人で鳥取県弁護士会長、日本弁護士連合会理事などを歴任した[2]。夫は中田吉雄社会党参院議員[2]旧姓は田中[3]

学生時代
[編集]女子師範附属小学校、東京府立第二高等女学校を経て、女子経済専門学校へと進んだ[5][7][8]。同校在学中は新渡戸稲造吉野作造我妻栄民法学者)らに学び、このことがきっかけで法律の道を志したという[3]。学問の講究を望んだ正子は、昭和6年(1931年)に日本大学法文学部選科生として入学[8][9]、昭和9年(1934年)に同課程を修了し、同年に明治大学専門部女子部3年次に編入学した[9][10]。昭和10年(1935年)に同部を卒業して同法学部へと進学する[9]在学中の昭和12年(1937年)、正子は高等文官司法科試験を受験して、女性初となる論述試験合格者となったが口述試験では不合格となった[11]翌昭和13年(1938年)に再び同試験に挑み、久米愛三淵嘉子と共に女性初となる合格者となった[4][5][11][12]。3名の女性合格者はいずれも明大女子部及び同法学部の出身者であった[4][11]

昭和14年(1939年)に中田吉雄と結婚する[4]。昭和15年(1940年)、弁護士試補試験に合格、遂に正式な弁護士となった[9]。正子は30歳となっていた[4]。東京丸の内岩田宙造法律事務所に在籍して弁護士活動を始める[13]。同年、正子は雑誌『主婦之友』や明大女子部において女性を対象とした法律相談を受け持った。これは女性を護りたいという気概から来るものであった[13][14]。夫の吉雄は出身地である鳥取県八頭郡若桜町に結核療養の為に移住し、昭和20年(1945年)に正子も吉雄の実家へと疎開した[4][12][13][15]。昭和23年(1948年)に鳥取県弁護士会に加入、若桜町を中心として活動する[15]昭和25年(1950年)には鳥取市馬場町に法律事務所を開業した[4][12]。在職中はともに女性初となる鳥取県弁護士会会長や日本弁護士連合会理事を昭和44年(1969年)に務めた。また、鳥取家庭裁判所調停員、同参与、労働省から委嘱された鳥取機会均等調停委員も務め[14][16]、62年余りに亘り弁護士活動を続けた[17]。昭和49年(1974年)に藍綬褒章、昭和56年(1981年)に勲四等瑞宝章が授章された[5][12][18]

平成14年(2002年10月15日心不全のため鳥取市の病院で死去した[2]。91歳歿[2]

人物像[編集]正子の長女は正子に「なぜ、弁護士になったの?」と問かけると正子は照れながら「失恋したから男性をやっつけてやろうとか、そんなはっきりした動機はなかったの[7]。学問的興味で試験を受けたら合格しちゃったのよ[7]。」と答えたという。

正子は江戸時代から続く武家屋敷旧岡崎邸に暮し、この貴重な歴史遺産を今に伝える上で大きな役割を果たしたことでも有名である[3]。旧岡崎邸を所有している不動産業者が建物を取り壊し更地にしようとしたところ、そこで暮す正子が居住権を楯に頑として認めなかったという[3]
     「開廷を待ちつつ」と題した詩
すべてのものに耐え すべてのものを容れてゆうゆうと流れる大河になるであらう 堂々と強い大河になるのだ

後世[編集]平成18年(2006年)4月15日から5月21日まで、鳥取市歴史博物館で展覧会「日本初の女性弁護士 中田正子」が開催された[19]。同展覧会は、同年8月1日から8月31日まで開催された若桜町での巡回展[20]に続き、翌平成19年(2007年)4月25日から5月28日まで、正子の父田中国次郎の出身地である米子市淀江町(かつての汗入郡福頼村[6]米子市淀江歴史民俗資料館にて開催された[17]

平成28年(2016年)3月、鳥取県弁護士会は中田正子をモデルとしたマスコットキャラクター「まさこ先生」を作成した[21]

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デザインについて
かつての弁護士は法服を着ており、法服を身につけた若き日の中田正子先生のお姿にちなんで、着物姿に法服を着た女性弁護士のキャラクターとしました(現在では弁護士が法服を着用することはありません。)。
法服の刺繍部分は、鳥取県にちなみ、鳥の羽をデザインした模様となっています。
帽子の羽は、羽ペンであり、いつでも依頼者のお話をメモできる秘密兵器です。
髪の色は、鳥取県の特産品である二十世紀梨の黄緑です。

トップ掲載の公式キャラクターだけでなく、末尾掲載のようなかわいいデフォルメキャラクターも誕生しました。

     Untitled  中田正子法律事務所前で 1980年

※注:このサイトは、中田正子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2024年5月8日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
NHK朝ドラ「虎に翼」のモデル、三淵嘉子は明治大学女子部からの同級生だった。昭和12年(1937年)正子は高等文官司法試験を受験して、女性初となる論述試験合格者となったが口述試験は不合格となった。男性試験官が生意気だから不合格にしたという女性蔑視の時代であった。 翌年、再び同試験に挑み他の二人と共に合格した。 正子は62年余りに亘り弁護士活動を続けた。女性を護りたいという気概溢れた弁護士でした。  
80歳をこえても法廷に立つなど晩年まで活躍しました。   合掌

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メッセージ
このメッセージは、 2024年5月8日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
NHK朝ドラ「虎に翼」のモデル、三淵嘉子は明治大学女子部からの同級生だった。昭和12年(1937年)正子は高等文官司法試験を受験して、女性初となる論述試験合格者となったが口述試験は不合格となった。男性試験官が生意気だから不合格にしたという女性蔑視の時代であった。 翌年、再び同試験に挑み他の二人と共に合格した。 正子は62年余りに亘り弁護士活動を続けた。女性を護りたいという気概溢れた弁護士でした。  
80歳をこえても法廷に立つなど晩年まで活躍しました。   合掌
軌跡

(学生時代)

女子師範附属小学校、東京府立第二高等女学校を経て、女子経済専門学校へと進んだ[5][7][8]。同校在学中は新渡戸稲造吉野作造我妻栄民法学者)らに学び、このことがきっかけで法律の道を志したという[3]。学問の講究を望んだ正子は、昭和6年(1931年)に日本大学法文学部選科生として入学[8][9]、昭和9年(1934年)に同課程を修了し、同年に明治大学専門部女子部3年次に編入学した[9][10]。昭和10年(1935年)に同部を卒業して同法学部へと進学する[9]。在学中の昭和12年(1937年)、正子は高等文官司法科試験を受験して、女性初となる論述試験合格者となったが口述試験では不合格となった[11]。翌昭和13年(1938年)に再び同試験に挑み、久米愛三淵嘉子と共に女性初となる合格者となった[4][5][11][12]。3名の女性合格者はいずれも明大女子部及び同法学部の出身者であった[4][

(生い立ち)

明治43年(1910年)、東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれた[4][5]。父田中國次郎は憲兵少佐[6] 、職業軍人の傍らシェークスピアを原語で読む好学の士であり、正子はこのような父の影響を受けて育った[7]