承継
この追悼サイトは、 平尾 昌晃(作曲家、作詞家、歌手・日本音楽著作権協会理事)さまのために作成されました。

享年79歳 、誕生日 1937年12月24日、命日 2017年7月21日
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平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年昭和12年〉12月24日 - 2017年平成29年〉7月21日[1])は、日本作曲家作詞家歌手社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事[3]などを歴任した

ソロ・デビュー[編集]
1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロ渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する[8]。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする[8]。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロックが10万枚を売り上げるヒットとなる[9]。その後、ミッキー・カーチス山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した[10]1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった[11]。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚[12]、「ミヨちゃん」は40万枚[13] とする文献もある。

ミヨチャン」の元歌は、戦前から中学生の間で流行していた作曲者不詳の歌で、平尾は高校生の頃に覚えたという。それを基に現代(1960年当時)向きの歌詞をつけてリメイクしたのが平尾の「ミヨチャン」である[14]

ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI英語版)が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった[15]1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した[15]

1970年代[編集]
1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャンらに提供している。作詞家山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている

1974年、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人畑中葉子川島なお美石野真子松田聖子川崎麻世大沢逸美森口博子芳本美代子笹峰愛倖田來未後藤真希西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代[編集]
また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]

2000年代[編集]
2001年モンブラン国際文化賞受賞

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年紫綬褒章受章

2004年に三男の平尾勇気歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1)では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。

平尾昌晃の人気曲 (一部・・・その他、多数あり)
   〇 ミヨちゃん              〇 砂に書いたラヴ・レター
   〇 星は何でも知っている         〇 リトル・ダーリン
   〇 恋の片道切符             〇 バルコニーに座って
   〇 ダイアナ               〇 カナダからの手紙
   〇 監獄ロック(ジェイルハウス・ロック)  〇 よこはま・たそがれ     
   〇 二人でお酒を             〇 グッド・バイ・マイ・ラブ                       〇 瀬戸の花嫁  〇 銀河鉄道999  〇 草原の輝き  〇 夜空  〇 恋のしずく
※注:このサイトは、平尾昌晃に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2025年5月30日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
数々のヒット曲を遺し、歌謡界に燦然と輝く平尾昌晃は「平尾昌晃音楽学校」を創立し多くの歌手を育成した功績も多大である。    合掌

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このメッセージは、 2025年5月30日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
数々のヒット曲を遺し、歌謡界に燦然と輝く平尾昌晃は「平尾昌晃音楽学校」を創立し多くの歌手を育成した功績も多大である。    合掌
軌跡

(生い立ち)

化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。

東京市牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る[4]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていた。

小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える[5]。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう[6]

藤沢市に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路水谷良重ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入る[7]。しばらくして、チャック・ワゴン・ボーイズボーカル小坂一也が脱退したため、オールスターズ・ワゴンとなる。