この追悼サイトは、 岸 恵子(女優・文筆家) 映画代表作「君の名は」「雪国」「おとうと」などさまのために作成されました。
享年93歳 、誕生日 1932年8月11日、命日 2026年8月7日
※ 岸 恵子(女優・文筆家)さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
岸 惠子(きし けいこ、1932年〈昭和7年〉8月11日[2][1] - 2026年〈令和8年〉8月7日[3])は、日本の女優・文筆家。岸 恵子の表記もある。身長161 cm。舞プロモーション最終所属。映画の代表作は『君の名は』『雪国』『おとうと』『約束』『悪魔の手毬唄』『細雪』など。
1952年5月、松竹の看板スター・鶴田浩二が独立して新生プロを創立[2]。その第1作として、マキノ正博の監督映画『弥太郎笠』の製作を発表、相手役に岸を指名するが、松竹は拒否[2]。かねてより松竹に不満のあった岸は辞表を提出し[2]、京都ロケに参加[2]。結局松竹が折れて、岸は映画に出演[2]。新生プロの第2作『ハワイの夜』でも鶴田の希望で共演し興行的にもヒット[2]、1953年3月に松竹に復帰し他社出演も認められ[2]、スターとしての商品価値を高めることとなった[2]。この頃、鶴田との恋愛関係が報道された[2]が、松竹に強引に別れさせられた。
1954年、木下惠介の『女の園』の撮影中、岸と久我美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[7]。同年4月16日、ジャーナリストの若槻繫を代表取締役に、久我、有馬、岸の3人で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立[2][8]。同月、松竹と他社出演の自由もある条件付きの専属契約を結ぶ[2]。
その映画祭で『亡命記』を見たデヴィッド・リーンは次回作『風は知らない』に岸に出てもらうため、同年6月3日、原作者のリチャード・メイソンとともに来日。ふたりで横浜の岸の自宅を訪れた。同年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[12]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った[13]。
レスターシャーの学校で英語の特訓を受けていた1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期された[14][注 1]。
リーンと同じく東南アジア映画祭で『亡命記』を見ていたシャンピは松竹を通じて出演依頼の電報を岸に送った。岸はシャンピの『悪の決算』が好きで二度も見ており、出演を快諾。同年1月16日、岸の起用が早々に内定した[15]。岸はそのままフランス語習得のためパリに移った[13]。
『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』は「長崎に台風は上陸しない」と松竹からクレームが入り[16]、1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開された。
1958年11月下旬から12月にかけて、岸、久我、有馬の三人が共演する『風花』の撮影が長野市で行われた[19]。撮影はしばしば悪天候に見舞われ、待ち時間の間、駐日ドイツ大使館付き武官が書いたゾルゲ事件の本に読みふけった。岸の頭にひらめくものがあった。「リヒャルト・ゾルゲは、ファシズムと戦い、自分なりの思想と手法で世界を良くしようと夢想した革命児だったのではないか」。そこから関連資料をむさぼり読み、映画の企画をたてた[20]。
1963年5月23日、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した[21]。二人で週刊誌のグラビアを飾ったこともある[22]。
1975年、イヴ・シャンピと離婚[1][注 3]。娘の親権は岸が持った。同年、パリ在住の役でテレビドラマ『赤い疑惑』に特別出演。
1996年、国連人口基金親善大使に任命された。
2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。
享年93歳 、誕生日 1932年8月11日、命日 2026年8月7日
※ 岸 恵子(女優・文筆家)さんへのメッセージ投稿や、写真アルバムの共有はサインインで可能になります。
岸 惠子(きし けいこ、1932年〈昭和7年〉8月11日[2][1] - 2026年〈令和8年〉8月7日[3])は、日本の女優・文筆家。岸 恵子の表記もある。身長161 cm。舞プロモーション最終所属。映画の代表作は『君の名は』『雪国』『おとうと』『約束』『悪魔の手毬唄』『細雪』など。
女優デビュー
田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ[6]、断ったが後に「本物の女学生が欲しい」と頼まれ、1950年に大船撮影所のニューフェイスとして合格[2]。1951年3月、正式に松竹へ入社し[2]、中村登の監督映画『我が家は楽し』でデビューする[2]。松竹からは新人女優きってのホープとして評価され[2]、宮城千賀子、嵐寛寿郎、高田浩吉、市川右太衛門、長谷川一夫などといった大物俳優たちと共演した[2]。1952年5月、松竹の看板スター・鶴田浩二が独立して新生プロを創立[2]。その第1作として、マキノ正博の監督映画『弥太郎笠』の製作を発表、相手役に岸を指名するが、松竹は拒否[2]。かねてより松竹に不満のあった岸は辞表を提出し[2]、京都ロケに参加[2]。結局松竹が折れて、岸は映画に出演[2]。新生プロの第2作『ハワイの夜』でも鶴田の希望で共演し興行的にもヒット[2]、1953年3月に松竹に復帰し他社出演も認められ[2]、スターとしての商品価値を高めることとなった[2]。この頃、鶴田との恋愛関係が報道された[2]が、松竹に強引に別れさせられた。
「君の名は」3部作がヒット
1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用した岸のアドリブである)。岸自身は、『君の名は』ばかりが長期間話題にされることを疎ましく感じ続けた。以降、松竹の看板女優となった。1954年、木下惠介の『女の園』の撮影中、岸と久我美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[7]。同年4月16日、ジャーナリストの若槻繫を代表取締役に、久我、有馬、岸の3人で「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立[2][8]。同月、松竹と他社出演の自由もある条件付きの専属契約を結ぶ[2]。
『風は知らない』は主演変更に
1955年5月14日、シンガポールで第2回東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕。日本からは、岸と佐田啓二が共演した『亡命記』[9]など5本の長編映画が出品された。5月19日、『亡命記』が上映。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞した[10][11][7]。その映画祭で『亡命記』を見たデヴィッド・リーンは次回作『風は知らない』に岸に出てもらうため、同年6月3日、原作者のリチャード・メイソンとともに来日。ふたりで横浜の岸の自宅を訪れた。同年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[12]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った[13]。
レスターシャーの学校で英語の特訓を受けていた1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期された[14][注 1]。
『忘れえぬ慕情』
延期の通知が松竹に届いたちょうどその頃、松竹は来日中のフランスの映画監督イヴ・シャンピと日仏合作映画『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』の製作の準備をしていた。ダニエル・ダリューとジャン・マレーが出演することもすでに決まっていた。リーンと同じく東南アジア映画祭で『亡命記』を見ていたシャンピは松竹を通じて出演依頼の電報を岸に送った。岸はシャンピの『悪の決算』が好きで二度も見ており、出演を快諾。同年1月16日、岸の起用が早々に内定した[15]。岸はそのままフランス語習得のためパリに移った[13]。
『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』は「長崎に台風は上陸しない」と松竹からクレームが入り[16]、1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開された。
映画監督シャンピと結婚
1957年4月29日、日本を出国。同年5月、シャンピと結婚した[17][1][18][注 2]。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。以降はパリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた[1]。この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。1958年11月下旬から12月にかけて、岸、久我、有馬の三人が共演する『風花』の撮影が長野市で行われた[19]。撮影はしばしば悪天候に見舞われ、待ち時間の間、駐日ドイツ大使館付き武官が書いたゾルゲ事件の本に読みふけった。岸の頭にひらめくものがあった。「リヒャルト・ゾルゲは、ファシズムと戦い、自分なりの思想と手法で世界を良くしようと夢想した革命児だったのではないか」。そこから関連資料をむさぼり読み、映画の企画をたてた[20]。
1960年代
シャンピが監督し、岸が出演した『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』は1961年に公開された。1963年5月23日、1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した[21]。二人で週刊誌のグラビアを飾ったこともある[22]。
1970年代
1972年には映画『約束』で萩原健一と共演[23]。萩原とは『雨のアムステルダム』(1975年)でも共演。同72年のテレビドラマで佐分利信らとパリ現地で共演した『化石』は、後の1975年に再編集され映画化された。1975年、イヴ・シャンピと離婚[1][注 3]。娘の親権は岸が持った。同年、パリ在住の役でテレビドラマ『赤い疑惑』に特別出演。
1980 - 1990年代
1983年には「ペントハウス」誌の創刊号で、後ろ姿のヌードを披露した。1996年、国連人口基金親善大使に任命された。
晩年
2000年、娘や2人の孫息子と暮らしたフランスを離れ日本に戻り、横浜の実家で一人暮らしを始めた。同年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優7位となっている[24]。2013年3月、自らの恋愛経験を基にオマージュした熟年男女の恋愛小説『わりなき恋』を発表。2014年、小説『わりなき恋』を原作とした一人舞台『わりなき恋』に主演。脚本も自ら書いた。
死去
2026年8月7日、老衰のため、神奈川県横浜市の自宅で死去した[3][25]。93歳361日没。94歳の誕生日を迎える4日前だった。訃報は同月19日に所属事務所より発表された。主な出演
日本映画
『我が家は楽し』(1951年)『君の名は 第三部』(1954年)『ここに泉あり』(1955年)『風花』(1959年)『黒い十人の女』(1961年)- 我が家は楽し(1951年)
- 獣の宿(1951年、DVD発売)
- 恋文裁判(1951年)
- 母恋草(1951年)
- 母待草(1951年)
- 南風(1951年)
- 鞍馬天狗 鞍馬の火祭 (1951年、DVD発売)
- 吃七捕物帖 一番手柄(1951年)
- ひばりのサーカス 悲しき小鳩 (1952年、DVD発売)
- 唄くらべ青春三銃士(1952年)
- 旗本退屈男 江戸城罷り通る(1952年)
- 本日休診(1952年、DVD発売)
- 風流活殺剣(1952年)
- 相惚れトコトン同志(1952年)
- 銀座巴里(1952年)
- 郷愁・「幻なりき」より(1952年、DVD発売)
- 坊ちゃん重役(1952年)
- 弥太郎笠 前後篇 (1952年、DVD発売)
- ハワイの夜(1953年、DVD発売) - ハワイロケが行われた
- 乙女の診察室(1953年、DVD発売)
- 君の名は 第1部(1953年9月、DVD発売)
- 君の名は 第2部(1953年12月、DVD発売)
- 景子と雪江(1953年) その他、多数

- 注:このサイトは、岸恵子に関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています 作成者拝