この想いでサイトは、私たちの尊敬する人 稲盛 和夫(京セラ創業者)さんを記念して作成されました。
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:稲盛 和夫(いなもり かずお)
戒名:ー
墓地:京都府八幡市円福寺(京都)、日本
日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長[3]。日本航空名誉会長。一時経営破綻した日本航空の再建にリーダーシップを発揮するなど、日本経済に大きく貢献した[4]。
人物・来歴[編集]1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し[1]、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。銀行就職を考えたが周囲の勧めで[要出典]、旧制鹿児島中学校から新制鹿児島市高等学校第三部に進学[5]。1950年に鹿児島市高等学校第一部と第三部の普通科が統合されて鹿児島県鹿児島玉龍高等学校(市立)となったため、翌年3月に同校の第一期生として卒業する[5]。大阪大学医学部薬学科の受験に失敗し、当時は新設大学であった鹿児島県立大学(後年鹿児島大学に統合)の工学部応用化学科で、有機化学を専攻した[5]。
1955年(昭和30年)、鹿児島県立大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風工業(歯科器材の松風とは創業者が同じ別会社[6])に入社。1958年(昭和33年)、退社する。
妻の朝子は、禹長春の四女である[7]。
起業家・企業家として[編集]1959年(昭和34年)業績が下降を辿り退職が相次いでいた、松風工業社員8人を引き連れ京都セラミツク(現・京セラ)を京都市中京区西ノ京原町で創業する。
1971年(昭和46年)創業12年で大阪証券取引所に株式上場。
1972年(昭和47年)「大規模集積回路用セラミック多層パッケージの開発」により、第18回大河内記念生産特賞を受賞。
1972年(昭和47年)東京証券取引所市場に株式上場をはたす。
1973年(昭和48年)京都セラミックが音頭をとり、日米合併企業となるジャパンソーラーエナジー(JSEC)を設立。
1974年(昭和49年)「電子回路用セラミック積層技術の開発」により、第16回科学技術庁長官賞を受賞。
1984年(昭和59年)稲盛が音頭を取り国による通信事業自由化が決定すると、京セラが資金を投入し民間初となるDDIを設立。(後にケイディディや日本移動通信と合併し、現在のKDDIとなる)。
1988年(昭和63年)日本セラミックス協会会長に就任[8]。
1998年(平成10年)複写機メーカーの三田工業が 経営に行き詰まり会社更生法の適用を申請した際、三田工業からの要請により、京セラは三田工業の支援を表明した。2000年の更生計画認可を受けて同社を「京セラミタ株式会社」に商号変更し、京セラの子会社とした。そして、9年間の予定の更生計画を2年間で達成した。
2009年(平成21年)ワールド・アントレプレナーシップ・フォーラムで世界起業家賞を受賞[9]。
2010年(平成22年)2月 日本航空会長に無報酬で就任する。「JALフィロソフィ」の策定など積極的な社員の意識改革に取り組み、全従業員の3分の1にあたる1万6千人のリストラを断行して、着任の翌期には営業利益1800億円の高収益企業に生まれ変わらせることに成功。赤字続きだった日本航空を3年足らずで再上場させた。
受賞・栄典[編集]
〇 仕事にも人生にも法則がある。その法則にのっとった人間は成功し、外れた人間は
失敗する。
〇 人生・仕事の結果 = 考え方×熱意×能力
〇 動機善なりや、私心はなかりしか
〇 運の悪い人というのは、自分を棚に上げて人の批判ばかりしています。 そういう
人は知らず知らずに運を悪くしています。
〇 「もうこれでいい」と思った瞬間から、会社の没落が始まる。
〇 リーダーは常に謙虚でなければならない。 謙虚なリーダーだけが、協調性のある
集団を築き、その集団を調和のとれた永続する成功に導くことができる。
〇 人生というドラマにおいては、自分を主役にして脚本を書いた人と、目的意識もなく
惰性で生きた人では、大変な違いができるのです。
〇 時代がどう変わろうとも、人間の本質は変わらないのです。 誰しも人間は人生で善
きことを追求し、後世に何か価値あるものを残すことによって「永続性」を達成し
たいのです。
〇 実際にはできないことを、できるようなふりをしてはいけません。 まずできないこ
とを認めて、そこからスタートするのです。
〇 もっとも偉大な能力とは、自分自身に打ち克つ能力なのです。
〇 世の中に失敗というものはない。 チャレンジしているうちは失敗はない。 あきら
めた時が失敗である。
〇 自分自身を信じ、強烈な願望を抱いて目標を追い続けなければならないのです。そう
すれば夢を実現させることができると、私は信じています。 etc.

盛和塾最後の世界大会では、稲盛和夫塾長の最終講和が代読された
(神奈川県横浜市・パシフィコ横浜にて)
※このサイトで故人への弔意・思い出を自由に投稿することができます。
本名:稲盛 和夫(いなもり かずお)
戒名:ー
墓地:京都府八幡市円福寺(京都)、日本
日本の実業家。京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者。公益財団法人稲盛財団理事長。「盛和塾」塾長[3]。日本航空名誉会長。一時経営破綻した日本航空の再建にリーダーシップを発揮するなど、日本経済に大きく貢献した[4]。
人物・来歴[編集]1932年(昭和7年)、鹿児島県鹿児島市薬師町に7人兄弟の次男として生まれる。父の畩市は「稲盛調進堂」という名で印刷工場を経営していた。西田尋常高等小学校(現在の鹿児島市立西田小学校)を卒業し[1]、私立鹿児島中学校(旧制、現在の鹿児島高等学校)へ進む。銀行就職を考えたが周囲の勧めで[要出典]、旧制鹿児島中学校から新制鹿児島市高等学校第三部に進学[5]。1950年に鹿児島市高等学校第一部と第三部の普通科が統合されて鹿児島県鹿児島玉龍高等学校(市立)となったため、翌年3月に同校の第一期生として卒業する[5]。大阪大学医学部薬学科の受験に失敗し、当時は新設大学であった鹿児島県立大学(後年鹿児島大学に統合)の工学部応用化学科で、有機化学を専攻した[5]。
1955年(昭和30年)、鹿児島県立大学工学部を卒業後、有機化学の教授の紹介でがいしメーカーの松風工業(歯科器材の松風とは創業者が同じ別会社[6])に入社。1958年(昭和33年)、退社する。
妻の朝子は、禹長春の四女である[7]。
起業家・企業家として[編集]1959年(昭和34年)業績が下降を辿り退職が相次いでいた、松風工業社員8人を引き連れ京都セラミツク(現・京セラ)を京都市中京区西ノ京原町で創業する。
1971年(昭和46年)創業12年で大阪証券取引所に株式上場。
1972年(昭和47年)「大規模集積回路用セラミック多層パッケージの開発」により、第18回大河内記念生産特賞を受賞。
1972年(昭和47年)東京証券取引所市場に株式上場をはたす。
1973年(昭和48年)京都セラミックが音頭をとり、日米合併企業となるジャパンソーラーエナジー(JSEC)を設立。
1974年(昭和49年)「電子回路用セラミック積層技術の開発」により、第16回科学技術庁長官賞を受賞。
1984年(昭和59年)稲盛が音頭を取り国による通信事業自由化が決定すると、京セラが資金を投入し民間初となるDDIを設立。(後にケイディディや日本移動通信と合併し、現在のKDDIとなる)。
1988年(昭和63年)日本セラミックス協会会長に就任[8]。
1998年(平成10年)複写機メーカーの三田工業が 経営に行き詰まり会社更生法の適用を申請した際、三田工業からの要請により、京セラは三田工業の支援を表明した。2000年の更生計画認可を受けて同社を「京セラミタ株式会社」に商号変更し、京セラの子会社とした。そして、9年間の予定の更生計画を2年間で達成した。
2009年(平成21年)ワールド・アントレプレナーシップ・フォーラムで世界起業家賞を受賞[9]。
2010年(平成22年)2月 日本航空会長に無報酬で就任する。「JALフィロソフィ」の策定など積極的な社員の意識改革に取り組み、全従業員の3分の1にあたる1万6千人のリストラを断行して、着任の翌期には営業利益1800億円の高収益企業に生まれ変わらせることに成功。赤字続きだった日本航空を3年足らずで再上場させた。
受賞・栄典[編集]
- 1972年 - 第18回大河内記念生産特賞
- 1974年 - 科学技術庁長官賞
- 1979年 - 米国サンディエゴ市名誉市民
- 1981年 - 第2回伴記念賞名誉賞
- 1984年 - 紫綬褒章
- 1995年 - 第45回「電波の日」郵政大臣表彰通信発明百周年記念賞
- 1996年 - 中国広東省東莞市栄誉市民
- 1998年 - 京都市自治百周年特別表彰
- 2000年 - ブラジル連邦共和国南十字星国家勲章
- 2001年 - 京都市市民栄誉賞、中国貴州省貴陽市栄誉市民
- 2005年 - 全国日本学士会アカデミア賞
- 2008年 - 第26回京都府文化賞特別功労賞
- 2009年 - 世界起業家賞(World Entrepreneurship Forum)
- 2011年 - Othmer Gold Medal(アメリカ化学会)
- 2012年 - 第2回孔子文化賞(世界孔子協会)
- 2014年 - 五井平和賞
- 2015年11月16日 - 県民栄誉表彰(鹿児島県)、市民栄誉賞(鹿児島市)[28]
- 2018年12月 - 紺綬褒章飾版、賞杯[44]
- 2019年6月28日 - 鹿児島県名誉県民[45]
- 2019年11月 - 名誉大英勲章KBE[46]
- 2020年10月31日 - 紺綬褒章飾版、木杯[47]
〇 仕事にも人生にも法則がある。その法則にのっとった人間は成功し、外れた人間は
失敗する。
〇 人生・仕事の結果 = 考え方×熱意×能力
〇 動機善なりや、私心はなかりしか
〇 運の悪い人というのは、自分を棚に上げて人の批判ばかりしています。 そういう
人は知らず知らずに運を悪くしています。
〇 「もうこれでいい」と思った瞬間から、会社の没落が始まる。
〇 リーダーは常に謙虚でなければならない。 謙虚なリーダーだけが、協調性のある
集団を築き、その集団を調和のとれた永続する成功に導くことができる。
〇 人生というドラマにおいては、自分を主役にして脚本を書いた人と、目的意識もなく
惰性で生きた人では、大変な違いができるのです。
〇 時代がどう変わろうとも、人間の本質は変わらないのです。 誰しも人間は人生で善
きことを追求し、後世に何か価値あるものを残すことによって「永続性」を達成し
たいのです。
〇 実際にはできないことを、できるようなふりをしてはいけません。 まずできないこ
とを認めて、そこからスタートするのです。
〇 もっとも偉大な能力とは、自分自身に打ち克つ能力なのです。
〇 世の中に失敗というものはない。 チャレンジしているうちは失敗はない。 あきら
めた時が失敗である。
〇 自分自身を信じ、強烈な願望を抱いて目標を追い続けなければならないのです。そう
すれば夢を実現させることができると、私は信じています。 etc.

盛和塾最後の世界大会では、稲盛和夫塾長の最終講和が代読された
(神奈川県横浜市・パシフィコ横浜にて)
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