この追悼サイトは、 吉行 和子(女優、エッセイスト、俳人)さまのために作成されました。
享年90歳 、誕生日 1935年8月9日、命日 2025年9月2日
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吉行 和子(よしゆき かずこ、1935年〈昭和10年〉8月9日 - 2025年〈令和7年〉9月2日)は、日本の女優、エッセイスト、俳人。東京府(現:東京都)出身。
父は作家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介、妹は詩人の吉行理恵。
父は和子が4歳のときに死去、母は美容師として働いていたため、ひどい喘息の発作が起こると、岡山の祖父の元に預けられていた。
1954年、女子学院高等学校を卒業。なお、卒業前に劇団民藝付属水品研究所を受験して入所[2]。女優になるつもりはなく、絵を描くことや裁縫は得意だったことから「衣装係にでもなれれば」と思って受験したところ、思いがけず女優候補として採用された[3]。
1955年、初舞台を踏む。同年、津島恵子主演の『由起子』でスクリーンデビュー。
1957年、民藝所属となる。『アンネの日記』のアンネ・フランク役に抜擢され、主役デビューも果たすが、その後は地味な「農民の娘」役ばかりであったという。
1959年、民藝所属のまま日活と契約。同年、『にあんちゃん』『才女気質』での演技で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。
1969年、33歳で退団してフリーになる[4]。
1974年の舞台『蜜の味』で、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
1978年、性愛を大胆に扱った大島渚の監督映画『愛の亡霊』に主演して(40歳を過ぎての出演には周囲の反対があった[5])世間を驚かせ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。
2002年には『折り梅』などで毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞。
テレビドラマのほか、かつては『おかあさんといっしょ』でのお話のお姉さんとしても活躍していた。
文筆の世界では、1983年にエッセイ集『どこまで演れば気がすむの』を出版し、1984年の第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。2000年には母の日に贈った五行歌が『朝日新聞』で大きく紹介された。
私生活では28歳のときに結婚するも、4年ほどで離婚[6]、以降は独身。子供はなし。
舞台俳優としては2008年の『アプサンス〜ある不在〜』を最後に舞台から引退することを表明したが、好評を博したため、2009年にアンコール公演が決まった(吉行自身はこのことに関して「女優って嘘つきですね」とコメントしている。一応、この作品のアンコール公演をもって引退するというが、その撤回も考えていると『徹子の部屋』でその複雑な胸中を明らかにした)。
2025年9月2日未明、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。90歳没。訃報は同月9日、所属事務所より公表され、葬儀は近親者のみで執り行われたとしている[7][8]。2月までは映画出演の仕事もこなすなど体調に大きな変化はなかったが、メディアによる事務所への取材によれば、持病の悪化により夏以降は都内の病院に入院しており、亡くなる10日前までは病室内でタウン誌への原稿執筆などの仕事もこなしていたが体調が悪化し、臨終は近親者に看取られたという[9]。遺作は2026年2月公開予定の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』となる[10]。

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享年90歳 、誕生日 1935年8月9日、命日 2025年9月2日
※ 吉行さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。
吉行 和子(よしゆき かずこ、1935年〈昭和10年〉8月9日 - 2025年〈令和7年〉9月2日)は、日本の女優、エッセイスト、俳人。東京府(現:東京都)出身。
父は作家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介、妹は詩人の吉行理恵。
来歴
2歳で小児喘息を患い、病弱な子ども時代を過ごす。1948年3月、千代田区立番町小学校卒業[1]。父は和子が4歳のときに死去、母は美容師として働いていたため、ひどい喘息の発作が起こると、岡山の祖父の元に預けられていた。
1954年、女子学院高等学校を卒業。なお、卒業前に劇団民藝付属水品研究所を受験して入所[2]。女優になるつもりはなく、絵を描くことや裁縫は得意だったことから「衣装係にでもなれれば」と思って受験したところ、思いがけず女優候補として採用された[3]。
1955年、初舞台を踏む。同年、津島恵子主演の『由起子』でスクリーンデビュー。
1957年、民藝所属となる。『アンネの日記』のアンネ・フランク役に抜擢され、主役デビューも果たすが、その後は地味な「農民の娘」役ばかりであったという。
1959年、民藝所属のまま日活と契約。同年、『にあんちゃん』『才女気質』での演技で毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。
1969年、33歳で退団してフリーになる[4]。
1974年の舞台『蜜の味』で、紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
1978年、性愛を大胆に扱った大島渚の監督映画『愛の亡霊』に主演して(40歳を過ぎての出演には周囲の反対があった[5])世間を驚かせ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。
2002年には『折り梅』などで毎日映画コンクール田中絹代賞を受賞。
テレビドラマのほか、かつては『おかあさんといっしょ』でのお話のお姉さんとしても活躍していた。
文筆の世界では、1983年にエッセイ集『どこまで演れば気がすむの』を出版し、1984年の第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。2000年には母の日に贈った五行歌が『朝日新聞』で大きく紹介された。
私生活では28歳のときに結婚するも、4年ほどで離婚[6]、以降は独身。子供はなし。
舞台俳優としては2008年の『アプサンス〜ある不在〜』を最後に舞台から引退することを表明したが、好評を博したため、2009年にアンコール公演が決まった(吉行自身はこのことに関して「女優って嘘つきですね」とコメントしている。一応、この作品のアンコール公演をもって引退するというが、その撤回も考えていると『徹子の部屋』でその複雑な胸中を明らかにした)。
2025年9月2日未明、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。90歳没。訃報は同月9日、所属事務所より公表され、葬儀は近親者のみで執り行われたとしている[7][8]。2月までは映画出演の仕事もこなすなど体調に大きな変化はなかったが、メディアによる事務所への取材によれば、持病の悪化により夏以降は都内の病院に入院しており、亡くなる10日前までは病室内でタウン誌への原稿執筆などの仕事もこなしていたが体調が悪化し、臨終は近親者に看取られたという[9]。遺作は2026年2月公開予定の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』となる[10]。
エピソード
- 母・あぐりは和子について「(幼少期から)ものすごく手先が器用だったんです。お人形さんのお着物を作りましたり、編み物をしましたり。うまく作るんです」と語っている[11]。
- 成年しても喘息は治らず、ずっと喘息の薬を飲んでいたが、52歳のとき鍼治療でよくなったと語っている[4]。
- 実際の性格はお茶目で温厚である。『タモリのジャポニカロゴス』では演じ分けを行い、タモリから絶賛された。
- 1960年(昭和35年)6月22日、ベルリン国際映画祭に出席のため、日活の堀久作社長らと共に西ベルリンへ出発。同7月14日、日本に帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なドイツ訪問となった。
- 俳優の岸田今日子、冨士眞奈美と親しく[注釈 1]、しばしば3人で座談会やテレビに出演した。2000年には共著『ここはどこ』『わたしはだれ』を出版。
- 長年の趣味でもある俳句は岸田と富士に誘われて始めた。俳号は窓烏(まどがらす)[12]。伊藤園お〜いお茶新俳句大賞では審査員も務める[13]。
出演
テレビドラマ
NHK総合
- テレビ劇場 簪(1958年6月13日) - 泉 役
- 松本清張シリーズ・黒の組曲「白い闇」(1962年) - 小関信子 役
- 虹の設計(1964年 - 1966年)
- 銀河ドラマ→銀河テレビ小説
- 大河ドラマ
- 土曜ドラマ
- 松本清張シリーズ・遠い接近(1975年) - 山尾良子 役
- 松本清張シリーズ・最後の自画像(1977年) - 福村よし子 役
- 心中宵庚申(1984年10月6日) - お加代 役
- すみれさんが行く(1985年3月25日) - 市浦令子 役
- 連続テレビ小説
- ドラマ新銀河
- トーキョー国盗り物語(1993年) - 遠藤悦子 役
- 新宿鮫シリーズ(1998年)
- 怒る男・わらう女(1999年) - 佐竹鈴子 役
- 氷壁(2006年) - 北沢秋子 役
- 柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い(2007年) - かつ 役
- 八日目の蝉(2010年) - 沢田昌江 役
- 四十九日のレシピ(2011年) - 桐野聡美 役
- 珈琲屋の人々(2014年) - 熊谷章枝 役 その他、多数



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