承継
この追悼サイトは、 カーネル・ サンダース(ケンタッキー・フライドチキンの創業者)さまのために作成されました。

享年90歳 、誕生日 1890年9月9日、命日 1980年12月16日
※ カーネル・さんへのメッセージ投稿や、思いでの共有はサインインで可能になります。

ハーランド・デイヴィッド・サンダーズ(Harland David Sanders、1890年9月9日 - 1980年12月16日)は、アメリカ合衆国実業家ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。愛称カーネル・サンダース(Colonel Sanders)で知られている。

青年期に40種に上る職を転々とし、30代後半から経営を始めて最初のガソリンスタンドは倒産、40歳から始めた2度目のガソリンスタンドにカフェを併設したアイデアが当たり、後のケンタッキー・フライドチキンの原型となった。

「カーネル」(Colonel)は名前でも、軍の階級である大佐でもなく、ケンタッキー州に貢献した人に与えられる「ケンタッキー・カーネル」という名誉称号名誉大佐)である。日本では「カーネルおじさん[1]ケンタッキーおじさん」の愛称が定着している。

「サンダース・カフェ」とフライドチキン[編集]1930年、サンダースはケンタッキー州の コービン英語版)(正確にはコービンの北隣で、ノックス郡ローレル郡にまたがるノースコービン (North Corbin, Kentucky) )に移り住み、ガソリンスタンドの経営を始めた[2]。道を尋ねに来た程度でも誠意のある接客をしていた[6]

1930年6月、ガソリンスタンドを利用した客から言われた一言から、ガソリンスタンドの一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー「サンダース・カフェ」を始める[3][7]。サンダースはガソリンスタンドの支配人と調理師とレジ係を兼ねた[4]。州の南北を貫く幹線道路である国道25号線英語版)に面した店は繁盛し、規模を拡大した[2]。1935年には「州の料理への貢献」が評価されて[4]、ケンタッキー州のルビー・ラフーン知事から「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を与えられた[3][1][8]

「サンダース・カフェ」は、1937年にはモーテルを併設した142席のレストランに成長した[4]。1939年には店舗が火災に見舞われるなどの災難もあったが[4]、1941年にはコービンに147人収容のレストランを再建した[5]。現在この店舗は博物館 (Harland Sanders Café and Museum) となり、アメリカ合衆国国家歴史登録財となっている。

「サンダース・カフェ」の目玉商品がフライドチキンであった[6]1939年に導入された圧力釜を用いた「オリジナル・フライドチキン」の製法は、以後80年以上にわたって「オリジナル・レシピ」として引き継がれている[9]

KFCのフランチャイズ化[編集]200px-KFC_signs_-_Old_and_New.jpg「サンダース・カフェ」に掲げられた旧ロゴマーク。サンダースは文字通りKFCの「顔」となった。サンダースが、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えてチキン一羽につき5セントで売るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めたのは、1952年である[4][6]。この年、ユタ州ソルトレイク市のピート・ハーマン (Pete Harman) が最初のフランチャイジーとなり、フランチャイズ一号店が開業した[4]。「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)というブランド名は、このときハーマンによって提案されたものである[1]

1955年、コービンの町外れを通過する州間高速道路州間高速道路75号線)が開通すると、車と人の流れは変わり、国道沿いのサンダース・カフェには客が入らなくなった[4][2]。サンダースは維持できなくなった店を手放したが、負債を返済すると手許にはほとんど残らなかった[3][4]。以後サンダースは、フランチャイズビジネスの普及に努め、フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回った。1960年には米国とカナダで400店舗[3]、1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築き上げた[3][4]

KFCの顔として[編集]200px-Kfc_logo_space.jpg2006年11月、ネバダ州の砂漠にタイル6万5000枚で描かれた巨大なカーネル・サンダース。面積は7,990m2。現在は存在していない。1964年、74歳のサンダースは、KFCの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却して経営の第一線から退いたが、以後も "public spokesman for the company"[4](直訳すれば「会社の広報担当 」。日本法人の表現によれば「味の親善大使」[1])として働いた。サンダースは製法が守られているか確認するために世界各国に広がった店舗(1979年には6000店舗を数えた[4])を見て回った。

  kfc01.jpg カーネル・サンダースの墓碑
    ケンタッキー州 ルイビルの ケープ・ヒル墓地

※注:このサイトは、カーネル・サンダースに関連した書きかけのものです。 内容について加筆・訂正などをしてくださる協力者を求めています  作成者拝

このメッセージは、 2023年11月7日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
カーネルおじさんは、世界中の人気者であり超有名人です。  合掌

メッセージの投稿

 
メッセージ
このメッセージは、 2023年11月7日に、イーライフ宇崎勝さんが投稿
カーネルおじさんは、世界中の人気者であり超有名人です。  合掌
大切な方の思いで

(生い立ち)

「カーネル・サンダース」ことハーランド・デイヴィッド・サンダーズ(以下、サンダース)は、1890年にインディアナ州クラーク郡ヘンリービル英語版)で生まれた。ヘンリービルは、ケンタッキー州最大の都市ルイビルからオハイオ川を越え、北へ30kmほど離れた町である。父親はサンダースが6歳のときに亡くなり[2]、母親が工場で働きながらサンダースとその弟妹を育てた[3]。サンダースは10歳から農場に働きに出ている[3][4]。学校は14歳で辞め、農場の手伝いや市電の車掌として働いた[5][4]

1906年、16歳のときに年齢を詐称して陸軍に入隊し、キューバで勤務した。彼の軍隊における経歴は一兵卒として終わっている。1907年に除隊した後は、青年期にかけて様々な職業を渡り歩き、鉄道の機関車修理工、ボイラー係、機関助手、保線区員、保険外交員、フェリーボート、タイヤのセールスなど40種に上る職を転々とした[5]。30代後半にはケンタッキー州ニコラスビルガソリンスタンドを経営するようになるが、大恐慌のあおりを受けて倒産するなど、多くの波瀾を経験した[3]