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この追悼サイトは、 上野 十蔵(中外製薬創業者)さまのために作成されました。

享年80歳 、誕生日 1892年3月10日、命日 1972年11月18日
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上野 十蔵(うえの じゅうぞう、1892年3月10日 - 1972年11月18日)は日本の実業家中外製薬創業者・元代表取締役社長。

来歴・人物[編集]鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥[1]

1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。

その後貿易会社大正貿易商会のニューヨーク支店長を務めたが、会社が倒産関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立[2]。1942年に中外製薬に改組・改名。

製造工程のオートメーション化により、「グロンサン」などの大量生産に成功[3]。同時に広告戦略を巧みに使い、業容を拡大。1962年には日本宣伝賞を受賞。

しかし証券不況のあおりを受け業績悪化。本社売却、人員削減、商品戦略の見直しを行い、1966年4月、会社再建のめどをつけ、社長を退任。娘婿に譲る。

1972年11月18日、南青山の自宅で心筋梗塞のため死去。享年80[4]墓所は青山霊園(1ロ-12-7)。

豪快な人柄で知られた[5]。1日の仕事時間は20時間[3]

1. 震災後の医薬品不足から創業 創業時代から一貫して続く、世界を視野に健康に貢献する志

1923年(大正12年)におこった関東大震災では、多くの死者・行方不明者がでて、さらに東京日本橋のくすり問屋街が焼失したため、深刻(しんこく)なくすり不足となったんだ。それを目の当たりにして、創業者(そうぎょうしゃ)の上野十蔵(うえの じゅうぞう)がくすり不足を解決するために会社をつくった。世の中で起こったできごとがきっかけで、会社がつくられたんだね。
社名にある「中外」は、「中=日本、外=海外」つまり「国内と国外」という意味。「良いくすりを海外から日本に広め、やがては日本のくすりを海外にとどけたい」という願いがこめられているんだ。

関東大震災の2年後にあたる1925年3月、上野十藏はドイツの製薬会社ゲーヘ社の輸入代理店を創業します。海外の良質な医薬品を日本中に広めるだけでなく、やがては日本の医薬品を海外に届けたいという志を抱き、社名を「中外新薬商会」としました。当時、上野は32歳。従業員7名での出発でした。その後、株式会社に改組し商号を「中外製薬株式会社」に改め新たなスタートを切ったのは第二次世界大戦の真っただ中の1943年のことでした。

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